雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

西田幾多郎が「内在極」とか「超越極」という言葉を使う。これについての哲学ノート

西田幾多郎はよく内在極とか超越極という言葉を使う。これがこの度のテーマである。というか私自身の大きなテーマでもある。これを理解することによって、創造の本質がよくわかるからである。




さてまず大前提として、押さえておきたいのは、西田は、この世界の根本的な在り方は「歴史的形成の世界」だと考えているということである。そして歴史的世界こそが真実在なわけである。歴史的に作り作られるというのが世界である。


哲学には色々の立場がある。感覚的なものは、イデアの影であり、真の実在は超越的なイデアだ、というプラトン。いやいやそんな非現実的なものではない、この現実の個物的実体が実在だ、というアリストテレス。実在そのものはよく知らんが、ともかく客観的世界とは超越論的なものなのだ(我々の認識の制約それ自身の客観性に基づくものなのだ)というカント。世界は絶対的自我の自己展開だというフィヒテ。ほかにも色々あるがとりあえず省略しよう。


しかしどの説明の仕方も、本当に「我々がそこに於て働き、そこに於て死に行く」ような世界なのであろうか?行為する自己というものは本当の意味でその世界観に含むことはできるのであろうか?と問うたとき、やはりこれらの西洋哲学の各説は、なんとなく意識的、知的立場に偏したものでと言わざるを得ない。行為というのは身体的なものだが、しかも本当に自己自身からの行為というものがあり得るには、自己が世界から言ってみれば超然としたものを持っていなければならない、世界丸ごとに対しこれを自己に取り込むことが可能であって、初めて自己自身からの行為というものが可能なのである。つまり超越論的に構成される客観的世界(という言葉遣いが正しいかわからんが心でわかってください)を持つような存在、つまり意識を持つ存在であって初めて行為が可能であるとともに、やはり行為が現実の世界の中に入って行って現実の世界を変じるということであるからにはそれは同時に身体的な存在でなければならない。身体と意識とは別ではなく、あくまで世界形成の働きの中に一でなければならないのである。単に意識の立場から身体を見ても(これが西洋哲学の伝統に根強い捉え方である)決してこういう本当に行為的な立場というものは理解できないし、逆に単に身体の立場から意識を見るというのは、単なる唯物的な世界観であり、生物学的、心理学的な世界観に過ぎないであろう。それで西田の立場というのは、身体が意識であり、意識が身体であるような立場である。無論身体と意識とはどこまでも区別されるものでなければならない(そしてここに内在極とか超越極とか、しかもあの意味不ワード筆頭の「矛盾的自己同一」を理解する鍵があるのである)。がこれらがどこまでも厳密に区別され、相反するものであるからこそ、逆にそれは世界の自己形成そのものの立場からは、どこまでも一なるものということになるわけである。


これは言い過ぎかもわからないが、私自身の実感に忠実に言うならば、この辺に西田の思考法の全てが詰まっているように思うのだ。つまりこういう逆説的思考である。逆説は単なる矛盾ではなく、矛盾をあえてはっきりと前面に出してみることによって、かえってその背後の、高次の論理が見えてくるという点に意味があるのだ。西田も色々のことを論じているが、結局はこの思考法をどこまでも応用していったものであると思う。世界そのものが逆説的なものなのだから。そして私もこの思考法をごっそりパクらせていただいている。ではそれは盗用か。否、否。哲学では、本質においては結局同じような思考法が根底に動いていても、哲学者のその時々の色々の「歴史的」状況に応じて色々の形になって表れ、色々の哲学が生まれることになるものだからである。カントのコペルニクス的転回というものだって、やっぱりクレイジーな逆説なわけじゃないか!哲学そのものを見てもわかるように、やはり世界は歴史的に形成されるものなのだ。




以上のことを前提とした上で、以下のような哲学ノートを晒すこととしよう。これは一年近く前のものであるが、やはり根本的な思考法は今と変わってない。ただ今はもう少し精細に同じ事柄がわかるようになったと思うし、ここに本当に思い付きのように少し触れられているだけの事柄も、もう少し具体的に考えられるようになっている。今読み返して正直自分でもワケワカメなところはあるし、まだはっきり定式化できていないもどかしさを感じる。しかし今ここに示した論理は、最近は「理念的形式と現実的形式」という考え方によってより整理して説明できるようになっている。そしてこの理念的形式のアイデアによって、色々論じてみたりもしている。そういったことはまたその内公開する予定である。


ちなみに、この哲学ノートは、多分西田の「歴史的形成作用としての芸術的創作」という論文を読みながら書いたのだと思う。これは全集の第十巻や、上田閑照編の「西田幾多郎哲学論集III」に収められている。



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自己という駒をどの極に持って行くか、内在極か、超越極か。内在極に持ってくる場合自己は点のようなものとなる。超越極に持ってくる場合自己は体積を持たない、超空間的なものとなる。内在極に自己の駒を持ってくるとき、自己は身体に深まり、自己の身体は唯一の身体となり、それ故についに身体がなくなる。超越極に自己の駒を持ってくるとき、自己は身体を越え、自己の身体は単に一般的なものとなり、それ故についに身体がなくなる。いずれの極に持って行くにしても、そもそも両方向の極は失われることはない、ただ片方が自覚的になりもう片方が無自覚的になるだけである。なぜなら一つの極の中には別次元の二つの極が含まれ、一つの極とその対極とはより高次には一つの極としてまとめられるからである。我々はどちらの極に意識を向けるにしても、無限に重なったフラクタルな構造の展望の広がりを味わうだけである。創造とは自覚である。我々はこの創造の立場を離れることはない。


内在極に徹底しても超越極がなくなるのではなく、逆に超越極の方向に無自覚的に深まることになり、超越極に徹底しても内在極の方向に無自覚的に深まることになる。内在極と超越極とは、一つの立体的面の両方向であり、一つの組である。一つの組は、一つの限定された形において一つの組なのである。そしてより高次の視点に移せば、この限定された形自体が、一つの内在極という意義を持つのである、ということはそこにはすでにそれに対応する超越極が現れているのでなければならない。点とはそれ自身の内に無限の広がりを持ったものなのである。含まれたものが含むものを含むのである。自己の内に世界があり、世界の内に自己がある、自己とは唯一のものとも一般的なものとも見られるものでなければならない。これを現れない一点と私は呼ぶのである。点は実際の形としては一つの円であるが、一つの円であることによって一つの点なのである。同様に円は一つの点という意義を持つことによって一つの円なのである。内在極もまた超越極の意義を持つことで内在極であり、超越極も内在極の意義を持つことで超越極である。単なる点は実在するものではない、単なる円もまた中心を持たねば一つの限定された円を描けない。内在と超越の二方向の極が必ずそれぞれ内在と超越を内に含んだ構造になっているのでなければならない。

内在極の方向に徹底するときそれが芸術であり、超越極の方向に徹底するときそれが学問である。西田のいうごとく、芸術は身体的方向に身体を越えることである。芸術においては、他の身体というものは問題にされない、そこにはただ己の身体というものがあるのみである。身体はそこでは一般的なものとしては捉えられない、ただ唯一の表現のための道具、現在の一点に世界を凝縮する特殊的なものとなる。一方学問では、自己の身体は、他の身体に対する一般的なものとして捉えられる。しかし芸術においても、自己の身体は単に唯一のもの、特殊なるものになるのではない、自己の身体は、一面全てが身体になるというだけでなく、造形美術がそうであるように、作られる材料と同じ次元のものとして、そのような質料の世界においてあるものとして捉えられているのでなければならない、しかも質料の世界においてありながらそれを越えると考えられるところに我々の表現的運動は成立するのである、いわば全体的身体の内に無自覚的に一般的身体があるのである、一般的身体の多くの点の内に、他の点と違うものがあり、それが物を作る手という意義を持つのである、ここではその点の中に周りの一般的なものは全て包まれ、自覚的に意識されるのはこの手のみである、このとき自己は包まれたものに包まれる包むものである。また学問において自己の身体が一般的なものとして捉えられるにしても、そのように自己の捉えている身体は、捉えられている自己の身体とはまた異なった意義を持たねばならない、すなわち自己の身体はここではすでに特殊なるものと考えられねばならない、学問といってもそこには執筆という具体的身体的活動を伴わねばならないのである、ここでは執筆という身体的活動そのものが自覚的に意識されるわけではない、しかし一般的なことがらを記述するというそのこと自体が特殊であるということがその無自覚的な意識に伴っていなければならない、そうでなければ執筆を執筆と認めることすら不可能である、自己の身体は無自覚的に、包むものを包む包まれたものとなっている。かくして内在極に進むことがかえって超越極に深まることであり、超越極に深まることが内在極に深まることになるのである。ただ芸術においては、超越極に深まる方向は自覚的に意識されていないのであり、学問においても、内在極に深まる方向は自覚的に意識されていないのである。我々の内に優れた学者であって、字の汚さというものを気にしない人がいるが、これは学問的思惟に徹底する立場において内在極の方向に深まるということが自覚的に意識されない良い例である。また芸術家は直観に頼ってばかりで、非論理的とも考えられ、芸術家自身もあまり論理というものにこだわらない姿勢を持っていても、彼の芸術作品をよく観察すれば、極めて高度な論理性と科学性に裏付けられていることが判明することがしばしばあるのである。内在に行くことの裏には超越への深まりが含まれそのまた逆も真なのであるが、ならばなぜ内在と超越をともに意識的に進むことが叶わないのであろうか。それは我々は身体的存在であるからである。というより存在の根本的な表現のあり方に、一方に行くということが本質的に含まれているからである。内在極と超越極いずれかの方向に行かねばならないのである。しかもいずれに行くにしても、常に両者は一つのものなのである。他者とは自己の内に考えられるものである。自己は自己でありながら他者を含むものとして、同時に他者でなければならない、しかも自己は自己である。

自己は一点である。しかし全てを内に包む一点である。全てを内に包むといってもそれは単なる円ではない、やはり一点なのである。内の極は直ちに外の極である。一つのものの両面が内在極と超越極である。故にこれを私は現れない一点というのである。

内に深まるということ。内に深まるとは、我々が深く自己の意識を反省するときのことなどであろう。自己の意識の深い反省といっても、それが学問的思惟の立場ならば、それは超越的方向へ行くことである、環境的方向へ広まることである。そう捉えるならば、内に深まることというのはむしろ外へ行くという方向である。環境を内から理解するとは、環境自身が押し広げられることである。環境は自己自身の内に心を含まねばならない。環境と心が別にあるのではない。また心は環境なのである。

身体を持つということは、自己自身の存在が自己自身を越えたところにあるということの型示しである。すなわち存在の自己矛盾の型示しである。世界は単に認識の問題として考えることはできない。なぜならば認識もまた行為というものの内の一つの側面に過ぎず、認識のみの認識というものはないからである、存在はむしろ創造的に認識するのである、形式とは存在の自己認識の創造的過程においてその都度切り取る型にすぎない。身体の問題を考えるには、身体を実体的に見てそれ自体を問題とするのでは何もわからない。しかしそれは単に身体を関係の網に溶かして考えるということではない。身体はやはり具体的形を持ったものでなければならない。実体的に、対象的に考えることを単に排除するのではなく、その立場を内に含んでこれを越えた立場が考えられねばならない。実体的に考えるということの中に実はすでに実体的ではない考え方が含まれているのではなかろうか。例えば我々は細胞というものを考えるにも、必ず核というものを考える。身体を考えるときには心を考える。自己自身によって動くもの、すなわち生命と考えられるものは、常にそれ自身の内にある統一的中心を持つとして常に認識されるのであり、そうでなければ生命としては認識されない。それ自身の内に統一的中心を持たないものは、例えば道具の形相は人間の内にあるというように、その統一的中心は外在的と考えられる、つまりそのようなものはその外在的な統一的中心の持つ身体の一部として、すなわち道具として働くことになるのである。西田は内在極の方向へ徹することによって我々の身体はついに道具となるといったが、それは統一的中心がついに我々の身体を離れると考えられるところから考えられるのである。身体に徹底することによって身体を離れるということが考えられるということに、身体を単に否定することによって身体を離れる立場との結びつきが考えられないであろうか。真に身体を否定するということは、身体に徹することでなければならないのではないか。身体を認識することにすでに身体を越えた統一的中心の立場が考えられていないであろうか。

作るものは作られたものであるとは、単に我々の人間の身体というものを考えるだけでは真に考えられない、霊界ということを考えねばならない。身体には身体が重なるのである。霊というものもまた作られたものであり、物質もまた作るものである。

他者の問題はいかにして考えられるであろうか。自己から見ればそれは現れたものの一種である。しかし単に現れたものならば、要するにそれは単なる客観的な事物と本質的な区別はない。他者は現れたものでありながら、自己の背後にあるものとも考えられねばならない。他者は人格である。他者を単に普通の客観的な事物と異なる、現れたもの他の一種と考えるならば、それは本質的に他者というものではない、そこでは自己の人格もまた一般的なものとなってしまう。