雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

離人症的な状態について、省察


私の今の状況、多分離人症と言われるものであると思う。この頃とても悩まされている。私は未だにこれの対抗策というか、治療法がわからない。しかしとにかく何か物を書くことに集中していれば、多少は回復するようにも思われるので、そういう意味も兼ねてここに色々書き記したい。


離人症とは何か、以下のページを参照ししてもらえればわかりやすい。全く奇妙で、言葉で表し難い、精神の病的状態だ。

https://susumu-akashi.com/2015/09/depersonalization/


まあ、私個人の状態をつづって行こう。こういう極めて奇妙で、なんとももどかしい精神状態になる方もおられるかもしれない。何か参考になればと思う。私はこの状態を脱することを強く望んでいる。あまりに生活が味気なくて仕方ないからだ。私は運良く実家で自宅警備ができ、休養に専心できる状況であるが、そうでない人もおられるであろう。そういう人にとっては、とにかく早く脱しなければならないといった問題であろう。もっとも私の記述などが少しでもたすけになるかどうか。


さて、こういう状態になる前、過度の精神的不安の続いた時期があった。それでこういう精神状態、ようやく治ったと一時思ったのである。が、実はそうではなく、慢性化してしまっていたというわけである。つまりこの心の重い状態そのものがノーマルの状態になってしまっていたというわけだ。ストレスは慣れるものではない。ストレスはストレスなのだ。


かくして私はいま常に頭が朦朧気味であり、時にはそれが頭痛になったり、背中や腹の痛みとなったりするのである。本当に頭が回らない。本を読んでも、音楽を聴いても、いつものあの吸い込まれる集中力というものがないのだ。どんなに気力を振り絞ろうとしても、そういう風に気力を振り絞った先から、何か虚無の闇に吸い込まれて行くのだ。ああ、なんと、生活が味気ないことか。悲しみすら、苦痛すら、私には遠いのだ。寂しさすら感じられない。この無限の侘しさ。私がなんとももどかしい思いをするのは、苦痛の感覚すらないということである。ただただ宙ぶらりん。ほかならぬ現実そのものがどこまでも非現実的にしか感じられない。


私は哲学が好きである。哲学書をよく読む。難しいけれども、読むのは苦しいけれども、踏ん張るのだ。そしていつも心の深い底から湧き上がる高揚感、充実感というものを感じていた。根暗な学生、ろくに友のない人間にとっては、これこそが友であった。しかし、今本を読んでもそんな感じにはならないのである。なるほど、平常のように、難解な哲学書を、ウンウン唸りながら読もうとはしてみている。ところが、ウンウン唸ることすらできないではないか!我が心は一面の???


哲学書などは、平常でもなかなか読み進まないものであるが、同じ「読み進まない」であっても、今のこれはまた別の状態である。すなわち読んでも文字の表面がなぞれるだけ。一つの字句の意味を、立ち止まって真剣に考えようとしてみるのだが、そうしようとして心を踏ん張ってみると、その先からあの虚無の闇に吸い込まれ行くのだ。見えない何かが背後から必死に引っ張っているような感覚だ。


音楽はとても好きである。哲学同様、我が生き甲斐である。音楽を聴く。ラヴェルコレッリのいつものあの感じを楽しもう。ところが、なんということか、音が遠いのだ!確かに聞こえている。和声もわかる。旋律もわかる。わかる、わかる、しかしわからない!音楽の、まさしく「音楽」の部分が聴こえないのだ。とにかく薄っぺらく聴こえてたまらない。実に奇妙としか言えない感覚だ。音楽にはそれぞれ個性があるものだが、その個性の味が、ないのだ。個性を感じようとしたとき、虚無の闇はすでにそこに待ち構えているのだから。


家には猫がいる。可愛いくてたまらない。思わず笑みがこぼれる。しかし虚無の闇は見逃さない。


家族と喧嘩をする。大いに怒りがこみ上げる。しかしここで虚無の闇である。私は妙に冷静になる。あるいは楽しく語らい、笑う、虚無の闇へ、である。


全てこんな調子だ。なるほど一つ一つはとりあえず、それ自体、そんなに深刻な重大なことでもなさそうだ。誰だってそういう風な気分になるときはあるさ。確かにその通りである。しかし問題はそれが日常の全てにわかって起こってくるということである。虚無の闇は全てを見逃さない。私も今必死にこれを書き記している。朦朧とした頭をなんとか奮い起こそうと。全てを見逃さない虚無の闇。気が滅入ってきそうだが、その気が滅入るという感情もまた吸い込まれるのである。なんと阿呆らしいことか。



ではこの状況、苦しいか?当然苦しいはずであろう。いや、苦しくあって欲しいのだ。ところが私は苦しくすらあることができない。確かに頭の重苦しい感じとか、感覚の違和感に基づく不快感とか、そういう表面的な苦しさはある。ところが、我が生き甲斐である音楽や哲学を存分に味わえないということから当然来るであろう、心の底からの苦痛というものが、ないのだ。なぜか。それはそういう真に感情的な苦痛というものは、出てきたその先から、虚無の闇に回収されるからである。私はもうこのブラックホールと闘うのに疲れてしまった。しかし闘う気力も、諦めて降伏する気力も、絶望して悲しむ気力も、とにかく感情という感情が出てきた先から吸い込まれて行く。私の頭は言う。「これは危ない状況だ、一刻も早くなんとかせねばならない!」心はこれに応えようとする。「確かにその通りだ」と言いたいのだ。危機感と、問題解決の強固な意志を、全身にみなぎらせたくてたまらない。しかしそう言おうとする瞬間に、ブラックホールはこれを吸い込む。苦痛も、喜びも、悲しみも、嬉しさも、ゼロになってしまう。この味気なさ。



私はこれまで哲学書などを読んでウンウン唸ることをただ苦しいこととばかり思っていた。が、ウンウン唸る苦しみの有難さというものが、今本当によくわかる。ウンウン唸ることだけではない。これまで嫌というほど味わった人生の苦悩、これは実に有難いものであったのだ。苦しみは喜びなのだ。喜びの本当の対極は無気力、虚無感である。愛の反対は無関心だとか言うように。


毎日後ろにべったりと虚無の闇をくっつけて過ごしている人間の立場から真剣に言わせてもらう。苦しみというのはまことに尊ぶべきものである。本当に無益なもの、無駄なもの、無意味なものというのは、苦しみという形では顕れてこないのではないかと思う。苦しみは一直線に喜びに向かっている。ところが虚無感というのは、苦しみから喜びへの道の途中でいきなりドロップアウトしたようなものであろう。本当に文字通り無意味なものなのだ。ナンセンスなのだ。馬鹿げたことなのだ。


ということは私は、どこかで道を踏み外したに違いない。馬鹿げた判断をしたに違いない。多分あの精神的不安の時期に、私自身の心の向け方をうまく工夫しなかったせいに違いない。私はいつもの癖で、ただ修行僧的に、苦行的に、頑張り続ければ良いと思っていた。しかしおそらくこれが根本的な誤りであった。私は私自身の心の声を直視することから逃げていたのではないか。道を踏み外した者は苦痛を味わうのではない、無気力を味わうのである。しかし無気力とは味わうことすらできないものであり、とにかくゼロなのである。もし苦痛が出てきたならば、それは少なくとも、自己自身の心の叫びに直面しているということの証拠であり、なるほど忍び難いものがあるかもしれないけれども、自己自身の心そのものに真っ直ぐ向かっているというその点において、彼はまさに喜びに一直線に向かっていることになるのである。


こんなこと書いても、読む方々には具体的事情がわからないのだから、よくわからない話かもしれない。しかし私は、私自身の実体験から確かに語れるのだが、いかなる苦しみも、苦しみである以上、必ず善い方向へ向かっているということだ。これはよくある気休めのような意味で言っているのではない。もっと冷徹な哲学的確信としてである。つまり、苦しみと、虚無感とには、質的な違いがあるのである。何度も言うように、苦しみは喜びの裏面とも言うべきもであり、人生の充実の一面である。そして人生の充実そのものを否定したのが、虚無感である。虚無感は人生の空虚だ。人生の不在だ。喜びの不在ではない。人生そのものの不在なのだ。



ああ、実に、実に有難いことに、こうして、虚無の闇を振り払って、虚無の闇それ自身に抵抗しようとしていると、この私の心にも、多少「人間」が蘇ってくる。私はこれを抱きしめたい。それが苦しかろうが、悲しかろうが、全て人生の味なのである。私のこの現状は苦しくて仕方がない。そして苦しくて仕方がないというのも、今多少なりとも人間の心が蘇っているからこそ言えることなのだ。


私は今、苦悩がなつかしい。人生の苦悩に直面し、どうにかしようと奮闘することの内に充実はあるのだ。そこにはごまかしが通用しないからこそ、喜びに真っ直ぐ通じるものがあるのである。私は、例の精神的不安の時期、多分、本当に奮闘すべきものに立ち向かわないで、別のことを必死に頑張ることによって、必死に奮闘しているような素振りを見せていたのであろう。それは神を欺き、自己を欺くことなのだ。そして人生の充実から遠ざかり、無気力の闇に陥ってしまうことである。







私がここに書いたことは、とても大げさに見えるかもしれない。私も大げさに感じる。しかしこういう風に無理をしてでも大げさにしなければ、生きている心地がしないのだ。とにかくなんとか大げさにすることによって、しばし私の心には、人生を生きているという実感が戻ってくる。すなわち、苦しみと喜びとが戻って来る。これが今どんなに有難いことかわからない。私は切に望むのであるが、一刻も早く、人間の心に戻りたい。


人生が喜びと充実とに満ちたものでありますように。世界が弥栄で満ちますように。



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