哲学研究

実在の問題について自我流で好き勝手考えています。三木清や西田幾多郎が好きです。

言葉が言葉としての形を持つということ自体がすでに異常な事態なのぢゃ

言葉は必ずしも形のあるものである必要はなかろう。なぜなら世界そのものがロゴスだからである。コミュニケーションなどと言っても、物を手に取るというそのことが、なぜすでに高度なコミュニケーションでないか。私は、全ての形が他者であり、妄想ですらす…

「重ね合わせ」の認識論の試み (2)見ることと感じることとの関係

(1)からの続き。 五感の体系性 五感そのものがロゴス的であることについて 五感の体系性 (1)で論じたこと、すなわち「重ね合わせ」の理屈にまつわる議論では、「物」の無味乾燥な認識について論じたばかりである。ということは、これだけでは視覚と触覚に限…

「重ね合わせ」の認識論の試み (1) 「浮き出」から物の認識を考える

「身体的認識論のメモ」で、次のように言った。 物を掴むということもやはり私のこの身体の重ね合わせである。重ね合わせは、無論単独の事実ではなく、重ね合わせに別の重ね合わせが重なっていて、無数に重ね合わせがここに同居している。このことは、普通に…

「斜め」についてのメモ

縦横斜めと言う。哲学では縦横というのは、結構頻繁に目撃する。例えば時間を縦、空間を横に見て、また同じく意識を縦に、あちらに見えるものすなわち対象を横に見て、これらを結びつけてああでもないこうでもないと議論を展開したりするのである。ところで…

私はいま、私の身体を遠隔操作しているのだ、としてみよう

私が今使っているこの身体。身体を使うということを、そのまま遠隔操作だと理解すればよいのではないか。遠隔操作などと言えば、遠隔操作でない直接の操作というのが考えられて、その上でこれとの対比で考えられるのだが、そもそも全ての操作というものを遠…

現時点での自分の論理の定式化。または私のおまじない

とりあえず、自分自身のために、自分の論理を一旦整理する。未だ極めて未熟な思想だと思うが(これは「馬から落馬」かどうか)、しかしそれ以上のことが考えられるのでもないので、仕方ないと思う。 身体=形=他己同一=一即二……私のおまじない 身体=形=他己同一…

身体的認識論についてのメモ

本格的に、身体的認識論をやってみなければならぬと思う。それで西田の論理をどうにか認識論的に理解するのが私の当面の課題である。とても長くかかりそうだが。認識から入るのが、やはり良いと思う。認識論は、実在の問題はとにかくおいておき、認識という…

気分一元論 (2) 箱庭

(1)で言ったように、ここで用いるのは、方法的独断としての「気分一元論」である。ここは本当にただの箱庭遊びであり、何かまとまった論述をする場所ではない。少し思いつきを整理しておきたいのである。 「意志」が力を持つのは「気分」から 義務の意識もや…

気分一元論 (1) 方法的独断としての「気分」

唐突だが「見え」の地にあるもの、背景にあるものは何だろう。実体であろうか?それが無難な答えであろうが、実体という概念も我々にとって一つの「見え」でしかない。そうするとまた我々は振り出しに戻ることになる(大森荘蔵の『物と心』所収の「科学の罠」…

記憶の他己同一性について

私が記憶を尋ねるとき、記憶それ自身はすでに私の思考の外に出ている。現在の私と過去の私とは全く同居しないものであるからこそ、記憶は記憶たり得る。同居しているならば、それは現在の経験であると言われねばならない。したがって記憶は他者である。すな…

他己同一と「四」についてのメモ

「時と断面について」では、次のように述べた。 考えてみると、デカルトが「我あり」すなわち自己同一的な思惟する我の発見にとどまらず、これの逆側に同じく有限実体としての延長的物質を置いたのは、いや置かざるを得なかったのは、自己同一において他己同…

時と断面について

断面とは一つの過程を、横から切った平面である。これは良いだろう。次に、もし客観的な時というものが本当にある、つまり実在的な時の全体が実体的に存在するならば、原理的には何らかの形でその全体を、あたかも地図を広げるように見ることが可能である。…

作用と反作用とドイツ観念論についてのメモ

自然そのものと、それへの理論的知識とは同一でない。言うまでもないことである。たとえ自然そのものが、我々の予想に反した高度に精神的なものであり、実は我々が日常考えているくだらないことなど含めて何でもかんでも「理解」してしまう知性を持ったもの…

一と二の話(愚痴付き)

(画像によるエピグラフ) 私は色々とぐだぐだ述べているが、どんな主張であれ、全てが一つの根本的な公理から出て来ている。公理という言葉を使うのはそもそも間違っているかもしれないが、とにかく公理的なアレである。何と言えば良いのかな。根本原理?それ…

因果律を、機械論的なそれとしてでなく、表現的なそれとして理解するために

(考えている内に色々アイデアが膨らむのだが、膨らみ過ぎてわけわからなくなって、そのままスマホのメモ帳の闇に葬り去られるメモがあまりに多い。時々読み返して、この問題はまた後でちゃんと考えられるべきだと思うことが多いし、しかもそのテーマについて…

(自分用の補注)なぜ身体はいつもここにあるのか

前にこんなことを書いた。「身体浸透論」である。身体に関してはベルクソンや京都学派が注目して、存在論的に取り上げている(はず)。私もこれを存在論的に問題としたい。認識論的には、現象学からメルロ=ポンティのような人が出ていて身体ということに深く注…

ネ申もまた「身体」から考えられるということについて

我々の自己がそうであるような精神的なものを包む世界観には、どうしても何らかの形で大元の「自己自身を見る唯一実在」の概念が必要になってくる。色々呼び方はあるが、ネ申とでも言おうか。精神を物質に還元する唯物論に逃げるのは楽であるが、唯物論に逃…

メルカトル図法と物理的空間についてのメモと、「種」の原理についてのメモ

以下の二つのメモは、一応別々のものだが、深く内的に連絡を持つので、一つにまとめておくことにする。 いわゆる客観的世界は、メルカトル図法である 世界という地球儀を様々なレベルでメルカトル図法化 種について 「種」とは何であろうか 我々の自己の「意…

物理的宇宙は一つの氷である

ここに正方体か直方体に切り出された透明な氷の塊がある。透明過ぎて、そこにはあたかも何も存在していないように見える。しかしここに亀裂が入ると、透明の空間の中に、何か形を持った物体が現れるように見えるはずである。多分ギザギザした形になることが…

西田とカントの哲学的立場の根本的な違い

西田とカントの根本的な違いは、全ての認識を「直ちに」自覚とみなすか、全ての認識に自覚が「伴っている」とみなすかである。私はちゃんと哲学史的な概観ができるほど哲学の勉強が進んでいないので、この理解は、私の誤解かもしれぬが、とにかくそう考える…

おたまじゃくしの形而上学

「化」から実体というものを考える いわゆる「前世」と「背景」 実存のモデルとしての「おたまじゃくし」 おたまじゃくしとカエル 音符をおたまじゃくしと言うこと ちょっと何言ってるかわからない 「化」から実体というものを考える まず実体についてである…

形而上学的自画像その他

形而上学的自画像 1 形而上学的自画像 2 イデア的自画像 1 イデア的自画像 2 文字による自画像 私は時々、よくわからない絵を描いて楽しんでいる。雪舟の水墨画がなんとなく好きで、真似てみるが、どうもあのようにはいかず、なんだか奇天烈なものになる。結…

身体が浸透することによって全てが現れることについて……(1)基本概念

指を動かすとき、私の身体は指になりきっている。この文字打ちに集中するとき、私の身体は指以外のものではない。私の身体の他の部分は、今単なる映像であり、私の身体ではなくなってしまっている。同様に、頭を使うとき、私の身体は頭になりきっている。足…

「私のこの生きられた身体」が初めに認識されていないと、そもそもあらゆる事柄が意味を持ち得ないことについて

神話的事実論の補論。「客観的事実というものはなく、実際にはただ神話的事実があるばかりではないか」この記事では、タイトルにあるようなことを論じた。これを、ここでは「神話的事実論」と略称することにし、新たに補足的に議論を付け加えようと思う。 対…

デカルトの「物質」「精神」「神」という分析の意義

私自身のためのメモ。 哲学的分析の在り方。分かれる以前の「自体」から自ずから分かれるところを捉える 全ての分析は根本的には同じ構造を持つ(多分) 次の論文予告のつもり(だった) 哲学的分析の在り方。分かれる以前の「自体」から自ずから分かれるところ…

足元がただ「在る」ということとそれを「見る」ということとの違い

足元というのは、我々が意識するまでもなく常にここにあるものだが、足元を足元として「見る」には、頭を逆さに向けてやらねばならない。こうすると足元が頭になって、頭の方が足元になる。私は本来自然科学というのもそういう風なものとして理解すべきでは…

客観的事実というものはなく、実際にはただ神話的事実があるばかりではないか

過去は、全て神話なのではないか。今、ふと気付いた。我々は、いやこの「私」は、かつてアリストテレスや西田幾多郎や織田信長が、私と同じような具合に地上に肉体人として生活し、何十年か存在したと考え、別に彼らでなくとも良いが、とにかくそういう生活…

他己同一の図形的イメージ

適切に伝えられているか、また理解が正しいか分からぬが、とにかく私が今理解している限りでの図形的イメージを掲げてみる。 ここからここへ、の図。西田幾多郎の言葉で言うと、主体と環境の矛盾的自己同一の抽象的イメージ、ならびに行為的直観の抽象的イメ…

摂食と排泄

具体的生においては、摂食と排泄とは一つのものではないか。二つのものが一つであるから、ここにサイクルが生まれる。呼吸も摂食と排泄との繰り返しであろう。意識においては認識というものは直ちに行為、つまり行為的直観であるから、ここに至って摂食と排…

素人演奏の紹介

私はニートなのですが、ニートの時間を活かしてピアノの演奏を撮ったりしてます。この電脳空間の孤島が宣伝として役立つのかわかりませんが、即興演奏や作曲したものの動画をここでご紹介したいと思います。下は、「憂鬱の雲間」と名付けた演奏です。ラヴェ…