素人哲学研究

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。コメントも歓迎です。ガチで実在の問題を考えています。西田幾多郎が好きです。

バレンタインあったことすら気付かない

全てを語ったので本文は空白とする。

認識論一般のそもそもの欺瞞と衝動性について

当たり前のことだが、性交もまた認識である。本能的に、衝動的に、人は、これにまつわる身体の動きを知っている。後から知るとしても、むしろそれは元々身体に備わっている感じ方を思い出すということであろう。夢中であればあるほど、そこに私の知的な意識…

哲学に関してのこれからの私自身の目標

今の時点で、とりあえず自分はこう考えるという思考法が、自分なりに整理できて来ているような気がしないでもない。ここで、特に素人が陥りがちなのは、「これぞ我が哲学体系なり」とうぬぼれることである。例えば私のようにである。だが、そもそも哲学とい…

忙しい人のためのアイデアノート。草稿と清書の関係

草稿と清書とは、原型とその現実表現との関係にあたる。草稿がテキトーでいいのは、後で「ちゃんと」現実に表現されるからなのだ。ぼやけてていいのだ。要は、一つの形として現実に作られるものは、必ず二つの領域に被さっていなければならぬということであ…

哲学的概念としての「霊」について

これは書きかけの稿であり、論じたい中身も論じ切れていないが、論じ尽くさない論文もあって良いのではないかと思い、そのまま投稿することにした。実際は書くのに疲れたためである。書く気になったら、頑張って完成させようと思う。 ーーー私は全ての全てで…

他己同一について

この稿は書きかけであるが、大体趣旨は論じられたので、そのまま投稿することにする。続きを書く気になったら、続きを書こうと思う。ーーー私はよく他己同一という概念を使う。ドイツをけなしているかのような音の並びである。他己同一とは、私が創造的実体…

人間の本性としての「作ること」

生み出すことと、単に処理することとは質的に違う。新たに物を作るということは、それまでにないものを生み出すということであり、時間を底から改めることである。これを行為と呼んでよいであろう。処理するとは、ただ決まった枠に従ってそうするというだけ…

私の怪しいブログに行き当たってしまった人へ

私は日々、怪しげなことを書きまくっている。私自身も怪しいと思う。でも素直に言いたいことを書いていると、どうしても怪しくなってしまうのだ。だから、偶然ここに辿り着いてしまった人は、ここのブログを書いている人自身が、そのことを十分に自覚してい…

忙しい人のためのアイデアノート。「場」と「所」について

哲学というのは、長い文章で説明しなければならんから、あまり読む気のしないものになることが多い。そこで、簡潔に、私の思考法の根底に関わるアイデアを、ノート的に、まとめてみた。今回は、「場」と「所」についてである。 ーーーはじめに、事場(ことば)…

恥じること

自分という人間が文字通り罪深い人間であることが直感的に分かった(もっとも懺悔する気は少しもない)。例えば病的な自己顕示欲。つまりこのような文章を人に見せることである。いや、その他に、無限にバリエーションがある。私の文章を読む人は、私を含め、…

媒介について(創造的実体を考えるための一つの眼差し)

媒介という言い方は、どうしても外的な第三者というニュアンスがつきまとう。しかし実体それぞれが元々媒介者であるならば、そもそも媒介ということ自体必要としない。西田幾多郎は「媒介者の自己限定」という難しい言い方をしているが、要は元々媒介がそう…

「溶け合い」について

溶ける、とか、混ざる、ということは、無論我々の世界において普通に存在する事柄である。赤と青を混ぜると紫になるのである。塩を水に溶かせば塩水になる。しかし溶ける、溶け合うということは、深く考えれば、単なる世界の内に起こる特殊の現象ではなく、…

地球以外の天体に生命はあるか

夜空には無数の天体が認められる。地球のような惑星もわずかには見られる。同じ太陽系のそれに限るのではあるが。しかし大部分は恒星であり、その恒星一つ一つが太陽系を為し、惑星を従えているのであろう。地球には我々が生命と呼ぶものがある。今の自然科…

理念的形式と現実的形式

形とは、個性的なものが個性的なままに一般的となることである。だから形というのは、各々の形を持つのである。単に個性的なだけでは、形ではない、生命であり、現に生きられたもの、形のないもの、純粋にエロス的なもの、ただ働きであるものである。しかし…

主体と環境の関係についてのメモ

哲学においては結局のところは主体(主観)あるいは主体的なものだけから物事が考えられて行くことが多い。いわゆる実在論も、独我論を根底から論駁することはできない。一種の信仰という域を出ない。しかし主体には必ず環境が伴うということを忘れてはならな…

構想力についての哲学ノート

カントや三木清の言うように構想力ということが考えられるが、それは直ちに分析力のことではないか(※)。分析の原動力というものがなければならない。原子は元々在るものと言うよりも、人間の理性によって作られた形と言い得るものであり、分析力によるもので…

創造的実体の形

創造的実体はどんな形をしているか。いや全ての形が創造的実体なのである。どんな形でもそうである。形の中には全ての形が含まれている。しかもそれは外を持つ。常に外に接しているものである。だから無限に広いとともに、無限に狭いものも考えられねばなら…

耳鳴りと創造的実体

耳鳴りと言えば、ある時に鳴り、別の時には鳴らないものと考えられる。当たり前である。いつも鳴っているならば、いわゆる耳鳴りなどというものはない。そういう言葉も生まれない。しかしいわゆる耳鳴りではなくても、常に我々の耳には、あの何とも言えない…

創造的実体とパラレルワールドについてのメモ

いずれもっと詳論するかわからないが、私は西田哲学的な意味での実在を、「創造的実体」と言って良いのではないかと思う。今この創造的実体とパラレルワールドというものについてのメモを少しここに記しておきたいと思うのである。無論実在の根底にはいかな…

使命という言葉の魔力

これは、一つ前の記事、自己顕示欲といわゆる「スピリチュアル」との関係の話の続きである。スピリチュアルなどにおいては、しばしば、「使命」などという概念を吹き込むことによって、自己顕示欲を肥大化させ、それでこれに引っかかった人達を自分達の派閥…

自己顕示欲がなぜ出てくるか。社会的な観点から。いわゆるスピリチュアルと、スピリチュアリズムとに関して

スピリチュアルというものの様子を眺めていると、人間の恐るべき自己顕示欲の有り様がなんだかよく見えて来るように思われる。誰だって自己顕示欲というものはある。私も一応こういう形で、読む者皆無に等しい文章ではあるが、公開してしまっている、人に見…

いわゆるスピリチュアルというものについて

http://shinjakamo.seesaa.net/article/455957484.htmlこのページにあるようなものが実態ならば、なるほどいわゆるスピリチュアルの業界は色々と問題があるものと言わねばならない。スピリチュアルというのは意見発信の一形態と見ることもできるであろう。本…

私の文章について

私は一応文章を公開してしまっているが、実際のところこれはそんなに大っぴらにするような性質の文章でもない。まずこれは自分自身のための文章であって、ただ一応公開ということにしておくことによって、人様に読ませるという意識を保った上で文章を書くこ…

おにぎりを作っていて思ったこと。円について

この夜、おにぎりを作ることになった。まともに作ったことがないからこれでも大分神経を使う作業である。 正式な作り方というものを知らないから、見知っている完成像と、朧げな記憶と、お「握り」の言葉から作り方を推測して作ったのだが、作っている時に気…

気分とは何であるか

気分とは何であるか、一言で定義できるものではない。しかし私が注目したいのは、哲学における気分の扱いである。哲学において、普通認識と言ったときに、気分というものは単に付属的なものとしてしか理解されないであろうと思う。デカルトの『情念論』など…

見るもの聞くもの触るもの全て鬱陶しいことについて

今日は何だか精神の調子が非常に悪い。だから見るもの聞くもの触るもの、ことごとく鬱陶しく感じられる。世界が不思議なほど暗く感じられる。世界は同じ世界であるはずなのに。 こういうことから考えると、やはり我々が対象として見るものは、全てそこにおい…

現れるものは全て元々計画されていたものではないかという話

我々の現在とは、とにかくあらゆる事柄の「最後」と考えられる。現在こそがどんな物事であっても、その最終局面において見られる場所である。途中と考えられるものであっても、その終局が単に未来に見られるというわけではない。そもそも未来というのは、パ…

過去とか未来といったものについて考えるヒント。「過去」を手掛かりに

過去というのは、文字通り過去であって、すでに過ぎ去った諸々の事実の集まりと考えられる。しかし単なる部分部分バラバラのものの集まりが、一つの「過去」として、この現在にとって何か積極的な意義を持つことはできない。AとかBとかいった事実が、過去の…

「全体が全体であるためには」補足

前に、形が一つの全体として成り立つためには、実在の根底に結び付かねばならないと言った。つまりある一つのものの「輪郭」が定まるには、それが最終的な根源的な場所そのものに結び付かねばならない。概念的に幾ら形というものを規定しようとしたとしても…

全体が全体であるためには

あるものがある一つの全体であるためには、そして真に全体であるためには、それは実在そのものの根底に結びつかねばならない。例えばここに一つの形がある。この形の輪郭が定まるのは、その形が於いて在る場所そのものと、存在のレベルではっきりと結ばれた…