素人哲学研究

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

「溶け合い」について

溶ける、とか、混ざる、ということは、無論我々の世界において普通に存在する事柄である。赤と青を混ぜると紫になるのである。塩を水に溶かせば塩水になる。しかし溶ける、溶け合うということは、深く考えれば、単なる世界の内に起こる特殊の現象ではなく、元々創造的実体の持っている性質でなければならない。物があって、そこから、それが「溶ける」のではなく、その溶けるということがある前に、それはすでに「溶けている」のである。だから一であるものは、元々同時に二であり、三であり、十であり、無限であり、しかも一なのである。そしてゼロである。まとめて言うと、私は現象において溶け合いを考えるのではなく、実体において、存在においてそれを考えるのである。

何故に私はこういうことを言うのか。普通哲学において個物や主体など、ある存在を論じるというとき、必ず何らかの意味で実体的なものを想定している。どんなに実体的なものを否定する立場であっても、この世界を具体的に論じるためには、何らかの意味で、これ以上突き詰められないという単位がなければならない。それが個物だとか、理性的存在者とか、実存とか、物とか、原子とか、そういうものであるわけである。それらは色々と勿体ぶった理屈付けによって論じられているが、実際には、何らかの仕方で全て図形的なイメージに依らねばならないであろう。そしてそういう単位として表象される形は、おそらく点のようなものか、あるいは丸、そしてそれに準ずるような閉じた形か、あるいは逆に全てを包む円のようなものに違いない。そういうものが表象される時、そこには今言った「溶け合う」ということは、ふつう直接念頭に置かれないことは明らかであろう。溶け合うということが考えられるとしても、それは、その図形の枠の内での、あるいは枠と枠との間での、ある特殊な現象として意識され、問題にされるだけであり、存在そのものの本質として考えられるわけではない。だからこそ、音や色や物体の形など、こういったものは、それぞれ別の現象と考えられるのである。ドクサ(臆見、doxa)に尋ねてみよう。彼は言う。「何言ってんだい、別の現象じゃないか、それの何がおかしいのだ」と。しかし実際によく考えると、これらは別々の現象では有り得ない。果たして、音とか色とか形という本質的なものがあって、それらの様々な組み合わせのバリエーション、そして具体的に運動し変動して行く様相として世界が考えられるのであろうか?それは否と言わねばならないであろう。なぜなら実際には音は色を持っているのであり、形を持っているのである。私はいわゆる共感覚のことを言っているのではない。なぜ我々は、あの音を、その物から出た音であると、直観することができるのであろうか?よくよく考えてみれば、そもそも音と物というのが別にあるのではなく、実在のレベルでの「形」とは、それ自身は音とも色とも形とも呼べない何か、である。だから「音が色を持つ」と言ったが、音が色を持っているのではなく、元々それは「形」すなわち創造的実体なのだから、音はすでに色であり、色はすでに音であり、形はすでに色や音なのである。単なる色とされる形(ペイントソフトか何か開いたときに表示される、色を選択するためのあのグラデーションカラーのようなものを想起されたい)であっても、それは実際には単なる色なのではなく、色「として」の形であり、本当はそういうもの「として」の創造的実体なのである。カテゴリーはすでに形なのである。
(註。実体と属性の関係。実体そのものとその属性とがそもそも区別されねばならないのはなぜなのか考えてみよう。なぜなら実体とはそもそもそれ自身によって在るものであり、自己自身の存在に他のものを要しないのだから、その存在自身の内に属性と呼ばれる「他のもの」があるのはなぜかと問うことができるのである。属性は存在とは区別され存在に含まれるのだからそれは自己矛盾ではないと言われるかも知れぬが、そもそも存在のほかには何も存在しないという当たり前のことをよく考えてみれば、存在とは別に性質的なものが実在するわけではないこともよくわかる。かといって非実在というものが「在る」のでも決してない。性質というものがどうしてもこの世界の存在を何らかの仕方で説明するには不可欠であり、しかも存在以外には何も存在しないというならば、性質というものもまた、いわゆる「存在」とは別の種類の存在のことを言うのでなければならない。それでもやはり性質は存在とは質的に区別されるのだと言うならば、要するにそれらをともに包むものとして実在のレベルで見るべきであり、それを私は「形」とか「創造的実体」と呼んでいるのである。実体概念に必然的に付属する属性とはそのように考えられねばならない。ここにも私が何度も訴える一即二という論理が表れている。元々一がどこまでも一であることの内に二であることが含まれているのである。存在は形であるから、どこまでも変化し続けるものであり、その内に無限の内容の変化を前提したものなのである。だから今私がしているように、自分の考えを文字に書いたりすることができるのである。私は今現に環境の他己同一を信頼することによって行為するのである。ここからわかるように自己同一と他己同一とは、全く同じ場所に溶け合ったものであり、一が同時に二であっても三であっても無限であっても全く問題はない。我々は一が元々百より万より大きい数であるという観点から物を考えてみるべきである。

それで属性とは要するに環境という他己同一者であり、ここで言う「として」である。属性は単なる属性ではなく、属性を担って引き受ける他の実体が、その実体自身の内にあるということである。例えば私のこの身体の属性は地球的実体が担っているのである。この身体は地球から種的生命的に与えられたものなのだから。正確に言えば地球的実体が今私の身体というパースペクティブに現れた形が私の属性となっているのである。「として」には必ず、「そうでないもの」が、背後にあり、しかもそれはその背後にあるものを包んだものと考えられるのである。だから実体が実体であるという自己同一の内に、属性というものが含まれねばならないというのは、実は実体とは創造的実体であり、どこまでも他者との創造的関係の尖端にあることを離れないという事実を示すのである。)




私が全ての形が創造的実体であると言う理由もここにある。いかなる物であっても、これで完全に名付けられるということはない。本質的にはいかなる形へのいかなる名も、仮の名に過ぎないのである。そしてその「名」とはいわゆる名のことだけを言うのではない。名は無くても、あの形は、あの形だ、と直観的にわかるものがある。我々の現実において見られる物は大抵、物そのものが物自身の名になっているのである。それは哲学的に言えば、それ自身に同一であるもの、である。例えばこの布団はこの布団である。あるいは机の上に乗っているそれは、それなのである。だが、「あれ」とか「それ」としか言いようのない、そういった自己同一的なものの姿それ自身も、実は「仮の名」に過ぎないのである。ある定まった形と考えられるものも仮の名であり、「として」のものなのである。何が言いたいかというと、禅問答のようであるが、「あれ」とか「それ」は、あれとかそれであるとともに、すでに私であり象でありシューマン交響曲であり長靴であり純粋理性批判であり岡山県新庄村でありYOSAKOIソーラン祭りなのである。普通こういったものと、あれとかそれとは、別のものだと考えられる。しかしそれはそれでもあるし、あれでもあるし、あなたでもあるし、箱でも大音響でもピカソでもあるのである。それは全ての形は、実在のレベルでは創造的実体だからなのである。ただ今在る形は、そういうもの「として」今在るに過ぎないのである。そういうもの「として」の形とさせているのは、現在の「形」であって、創造的実体と創造的実体との創造的関係の尖端がそういう「形」を今しているから、それぞれの形はそういう形となっているのである。現在の創造的尖端がその必然性を与えているのである。

実在ということを問題にするには、我々はここまでラディカルに考えねばならないのである。そうでなければ、実在ということについて、やたらに難しい理論によって複雑に精密に論じているとしても、相変わらず音は音であり、色は色であり、それ以上にはならないという世界観そのものを前提にしてトンチンカンな(と言うと失礼か)結論を導くことになってしまう。創造的実体は元々全て溶け合っているのに。今日はベルクソン先生にお越しいただいてそのお話を聞きながら私はこれを書いているのであるが、先生の著作にはフィヒテなどドイツ観念論を少し馬鹿にしたような揶揄する言葉が出てくるのである。つまりフィヒテヘーゲルも、非常によく頑張ってはいるのだが、やはり彼らは音は音であり色は色であるに過ぎない世界観の枠で、必死に実在のある究極の完成像を朧げに思い浮かべながらーーーいや勿論これは私の勝手な想像だが多分真実であるーーーこれが実在の本質だ、と精緻なそして自己完結的で体系的な理論を唱える、この点についてベルクソン先生は滑稽に思ったに違いないのである(ドイツ観念論哲学者に失礼と思ってか、このことについては先生はお答えにならなかった)。

だが、そこまでかしこまる必要もないのではあるまいか。人間の考えられることなど高が知れている。人間は人間の分というものがある。そしてそれは他ならぬ「実在」から与えられているのである。そして人間の内の或る者達は、哲学すべく、哲理を考えるべく罰せられている(これはヘーゲル先生が自分がそうだとおっしゃっていた通りにである)。その分に応じて、そしてそれに相応しい形で(これも「形」だ)哲学をすればいいのではなかろうか。無論人はそれぞれ違うのであるから、色々なやり方があるであろう。ベルクソン先生の純粋持続というのは、まさに私がここで論じたような「溶け合い」ということとマッチする概念である。現象学では初めから究極の実在そのものを問題にすることを放棄し、むしろ徹底的に道具的であること自体に自己の本分を見出している。私はやはり究極の実在を問題にしたいから、色はすでに音であり、その響きはすでに象であるところから哲学を始めたいと思う。私の心の師西田幾多郎大先生はまさしくこの点で徹底していた。私は見習いたいと思う。
(西田先生の論文において、どこまでも論理的に、個物とか一般ということが考えられているにしても、常に私がここで言うような常に響き合いや溶け合いの中にある「形」を念頭に置かねば理解できないことが多いと思う。実在というのを本当は点とか線とか円では考えられるはずはないのだが、しかし哲学のそして論理学の議論では、あえてそのできないものをできないと分かった上でやってみるというところに意味があるのであり、最終的には、その「できないもの」が何であるかということを精密に限定して行くというところに目的があるのである。哲学は最後にはポエムにならねばならないのである。ポエムこそが実在の論理なのだから。そして実在そのものは、論理学の中では「矛盾」として現れる。この矛盾というものの本質を、否定的に、精密に限定して行くのが哲学である。)




以上、だいたい創造的実体の本質の一つとしての「溶け合い」について述べることができたと思う。尚似たような思考法は、「異質性と同一性について」でも展開した。溶け合いがあれば、「響き合い」ということもあるであろう。要するに感覚的なもの一般について、これらを、認識論にありがちなように単なる感覚として大雑把にくくって片付けないで、それが持っている深い哲理について、もっと精密に明らかにされねばならないのではないかと思う。無論フランス哲学においては、まさしく感覚そのものに潜む深い哲学的な意味を鋭く捉え、深く哲学的に論じたものが多くあるであろう。それはどこまでも尊重され学ばれるべきものであるが、しかし、響き合いとか溶け合いというのは、何度も言ったように単なる現象ではなく、創造的実体そのものの本質に属するものである。だから全てについて語り尽くしたような大哲学もまた一つの「形」として、別の形と溶け合ったものであり、響き合ったものである。哲学は音を、そして色を持ったものなのである。それは地域を越え、地球を越え、宇宙をも越えた響きであり色彩なのである。ユング心理学における集合的無意識とか、シンクロニシティなどということも、実在のこういった性質から必然的に出て来る概念と言えるであろう。私はこういう観点に常に立ち戻って、つまり偉大なる哲学をも一つの感覚的な或る物として見るような視点から色々と物を考えていきたいと思う(「色々」とは趣深い言葉である。よく知らないが英語などであれば多様としか言えないはずであろう。「様々な色の」と言ってしまえば文字通りの意味にしかならない。ああ麗しき大八洲)。

地球以外の天体に生命はあるか

夜空には無数の天体が認められる。地球のような惑星もわずかには見られる。同じ太陽系のそれに限るのではあるが。しかし大部分は恒星であり、その恒星一つ一つが太陽系を為し、惑星を従えているのであろう。地球には我々が生命と呼ぶものがある。今の自然科学の常識では、地球以外の天体には生命は基本的にないものであり、あったとしてもわずかなものと考えられている。つまり地球のような、科学者に言わせれば奇跡的な物質的条件の整った場合に限り存在すると言うのである。しかしこれらの無数の天体にいわゆる生命というものがないのであれば、そもそもこれらの天体は、それぞれの天体として成立する必要はあったのであろうか。生命なくして、これらの無数の天体、すなわち銀河、太陽系といった見事な星々の組織というものが可能と言うならば、その可能であるところの根拠は何なのであろうか。もちろんそれを謎と言って逃げることはできるであろう。科学的探求は謎から始まるのであり、謎が存在する限り科学も存在し得るのである。しかし謎を謎として実体化し、問題の本質的な探求から逃げるという姿勢は、全く非科学的態度と言ってよいであろう。真に科学的態度に忠実な者ならば、謎の先に、新たな発見の閃きを、魂の内に予見するのでなければならぬ。謎そのものの内に自己の生命を発見するのでなければならぬ。それでは我々が夜空に認めることのできるような無数の天体に本当に生命というものは存在しないのであるか。



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存在しないと言うならば、次のように考えてみてはどうであろうか。我々が日常暮らす世界、この肌に触れた空間には、色々の身体が認められる。例えば、朝起きて挨拶を交わす家族。学校や職場での仲間。店に入ると店員や客が居る。ある人はペットを飼っているかもしれない。動物園にはたくさん動物が居る。野に出れば、野生の動植物が生息している。彼らは全て身体である。しかし日常において我々は必ずしも彼らと直接会話したり、とにかく何らかの仕方で直接関わるわけではあるまい。むしろ大体は、単に眺められるだけの存在である。眺められるだけといっても、我々は、彼らが実は巧妙な機械仕掛けの物体だという風には思わないであろう。彼らは普通に、この私がそうであるように生きているものであり、近寄って見れば何らかの形でこの私とコミュニケーションが可能な存在であると我々は直観する。この直観を前提にして日常生活は成り立っているのであり、この直観を否定してしまえば、日常生活は直ちに崩れる。この直観とは何であろうか。要するに生命に対する直観である。我々は別に、彼らの身体を科学的に分析し、生命に特有の物質的条件、例えば色んな成分とか、身体の器官の成り立ち方とか、そういうことを調べた上で、彼らは自分と同等の生命だと断定するわけではない。彼らの身体を身体として認めるとき、ごく自然に、これらの身体は要するに生命であるということがわかるだけである。なぜであろうか。それはわからない。ただこのことは事実である。すなわち、生命とは、ある特殊の物質的条件による物質の集まりであることによってではなく、ほかならぬ生命によって、分析的な過程なしに直観されるものだということであり、そもそも生命として直観され得ないものは、生命とは言えないということである。どんなに巧妙に、我々のような身体と同じような物質的条件を整えてみても、そこに、ほかならぬ生命である我々自身が、「生命なり」と自然に直観できるものが存在せぬというならばそれは生命ではない。ただの機械である。そして生命の直観とは要するに、物体を単なる物体としてでなく身体として認めるということである。身体と認めるとはいかなることであるか。身体は常に、環境と有機的なつながりを持つと直観されている。自己自身から動くものと直観されている。何かを欲求するものと直観されている。そして何と言っても身体とは形を持つものであり、しかもそれは石のように、単に孤立したものとして扱うことのできるような形ではなく、先にも言ったように、必ず環境との有機的なつながりにおいてのみ理解される形ということである。身体は環境と相互に働き合うものとしてのみ理解される。我々が身体を身体として認めるときに必ずそういう把握の仕方があることに気づくであろう。あるいは我々が作る機械や道具のようなものも、環境との有機的なつながりおいて理解されるものであるが、それもまた、人間という具体的な生命そのものの表現であるという意味においてのみそのように理解されるのである。単に機械が、人間とかかわりなく、偶然にただそのような形を取ったとしても、それをそもそも機械と認めることすら不可能であろう。いかなる場合であっても、ある物体を身体として認めるとき、このような直観があるのである。

ところで夜空の天体はどうであろうか。これが本題である。これについて考えてみよう。これまでの自然科学における発見からもわかるように、天体と天体とは壮大な有機的な組織を為しているのであり、その全体が一つの大宇宙として、我々の存在の最も根本的な立脚地と考えられるものである。空想的な人にとってはそれらは無数の身体と身体との関係とも見られ得る。それはいま日常生活で普通に見られる身体ということについて少し考えてみた如くにである。しかし私は今これを現実的に論じてみたいのである。身体的ということの意味を徹底して考えてみたいのである。さてその膨大な数の天体の内の、宇宙全体から見れば実に取るに足らぬと考えられる一つの天体、地球というものには、今私が問題にしている生命というものが確かにあると我々はわかっている。では地球そのものは生命であろうか。理性的に考えて、生命を育むものはまた生命ではなかろうか。そして直観的にもその通りであるはずである。もし生命でないものが生命を育むと考えられるならば、それは生命というのを、ある特殊的条件の元に構成された物質的集積とみなすことになる。それ以外に、生命でないものが生命を育む方法はあり得ない。つまりそこでは育まれる生命なるものも本質的に生命と呼ぶべきものではないのである。生命とはまず直観されるものであり、生命がほかならぬ生命として直観されるということがあるから、この直観に基づいた上で、はじめてその具体的な物質的条件の分析を始めることが可能なのである。我々が天体をそれぞれ一つの個体として直観し、しかもそれらが地球と対等の「星」という存在として、宇宙において壮大な有機的関係を持つということを直観する、ということが可能であること自体に意味がなければならない。なぜ天体はそれぞれ一つの、このような壮大な有機的関係に含まれた個体として直観され、しかも地球もその一つであると直観されることがそもそも可能なのであるか。我々が生命を直観するというのはそもそもいかなる事態であるか、考えてみなければなるまい。

生命を直観するというのは、そこに表現的関係を見るということである。そこで今ここに表現的ということについて論じてみたい。そしてここにこそ身体性ということの本質が存するのである。生命というのをより哲学的に定義するならば、全体の自己表現的部分であるとともに、部分の自己表現的全体であるということである。この関係こそが生命であり、しかもそれは関係によって媒介される両者を捨象した消極的関係のことではなく、関係されるものが関係を自己に含むということである。一つの関係でありながら、すでに二つの関係であるということである。生命のあるところには、必ず身体というものがなければならない。身体というのは、全体の自己表現的部分であるとともに、それが固有の環境を持つということからすれば、逆に部分の自己表現的全体なのである。環境とは身体的に把握された世界なのであるから。全体と部分が表現的関係において結ばれているというのが生命である。しかもこの一つのものが生命でありながら、部分の内に持たれた全体との関係、全体の内に持たれた部分との関係、この二つのものが生命なのである。しかもやはりそれは一つのものである。私は難しいことを言いたいのではない。これは当たり前過ぎるくらい当たり前な事実であり、当たり前過ぎて我々が普段気づけないことである。全体は全体であり、部分は部分であり、それだけを考えるなら、全体が部分であり部分が全体であるということは単なる矛盾である。しかし実際のところ生命とは働くものであり、欲求的なものであり、環境を内に取り込み、逆に環境そのものの部分的表現となることによって自己自身であることができるのである。身体というものには必ず、何らかの意味で、環境から身体へがそのまま身体から環境へである、という循環が伴っていなければならない(つまりこれによって単なる自己同一の物と区別されるのである)。欲求とは単に身体が環境に求めるだけのものではなく、環境から身体へ求めるものでもあるのである(例えば、性欲、即ち種保存本能とは種的なものである。種的であることとは動物的身体にとっての環境である。環境が主体を通して自己を保つ一つのやり方が性欲というものである)。では身体が環境であり環境が身体である、全体が部分であるというのは、もう少し踏み込んでみるとどういうことであるか。それは全体というものが、より高次から見ればその高次の全体の部分であるということである。逆に部分もまた一つの全体であるということである。全体が部分であり、部分が全体であるという矛盾的な規定の内に、このような全体がすでにより全体であるものの部分であり、部分がより部分であるものの全体である、という無限の広がりが含まれているのである(相似形と相似形の無限の広がりとでも言えるか)。しかもこの無限の広がりには、その無限の全体というものがあるというのではない、なんとなれば全体とは部分なのであるから。仮にその全体像があるとすれば、全体が部分である、という規定がすでにその全体像そのものにおいて単なる矛盾となってしまう。全体が部分であり、部分が全体であるということで矛盾的規定が矛盾でなくなるのは、無限の創造的世界においてであり、つまりその都度その都度新しく見られる現在的な世界においてである(現在とは部分でしかないものなのに全体と言うほかないものであるから)。それは現在的に見られることによってのみ普遍的であり超時間的であるような世界である。要するにここからここへである。なかなか頭では理解しにくいことであるが、つまり今論じるところについて言えば、生命を育むもの、環境というのは、それ自身が一つの生命であり、すでにより大なる環境においてある一つの個性的な身体であるからこそ、始めてその内にもまた小なる生命を宿すことができるのである。小なる生命も、単にその環境より小なるものというわけではなく、一面に環境そのものと対等な大なるものでなければならないのである。だから我々は自己のこの目によって、この広い大地を眺めることができるのである。神は自己に似せて人を創り給うのである。表現的関係というのは、生命のあり得る唯一の仕方であるが、表現とは、全体が部分であり、部分が全体であるということにほかならない。全体とは普通それ以上外に出ることのないもの、唯一なるもの、自己自身によって在るものである。しかし全体は自己自身に依存することによって在るのである。何ものにも依存しないものは、何ものとしても存在することはできない。だから独我論にはかえって、自我に対立する非我というものが必要なのである。しかし全体が自己自身に依存することによって自己を、或る何ものかたらしめるとは、具体的にはいかなる仕方によってであろうか。それは、全体が自己自身の内に自己を作ることによってである。全体は、自己自身の内の部分において表現されるのである。ではある部分が全体の表現であるとして、その他の部分は全体の表現ではないのであろうか。もしその他の部分は全体の表現でないとすれば、全体の表現であるその部分と、他の部分とが、対等の存在として、相互に規定し合うということはそもそも不可能である。部分が全体を表現するというには、全体に含まれた全ての部分が対等であり、しかも全てが全体そのものの表現であるということがなければならない。さらに、部分が有限数のものならば、全体なるものも単に有限のものということとなる。それはおかしい、無論部分とは文字通り「無数」のものでなければならないのである、部分は本質的に数えられないものでなければならない。まとめて言えば絶対の一は無限の多であることによってのみ絶対の一であり、多もまた一であることによってのみ多であるということがなければならない。一々が独我論的な個物(これは無論人間というものを考えるだけではわからない、霊といってもまだまだである、その奥の極小即極大の絶対的尖端そのもののことである)の尖端的関係というのが世界の実相となるのである。そこには絶対に基体的に部分と部分とを統一するものはない。働きそのものが基体と言わねばならないであろう。この全体と部分との表現的関係を純粋に見れば、いわゆる無数の中心を持つ周辺なき無限球というものが考えられねばならないのである。すなわち中心は絶対に現れない一点と呼ぶほかないであろう。それは中心の中心なのであるから。しかし現実には、我々は、具体的な形を持ったもの、すなわち身体あるいは環境というものを単位として、世界を捉えている。実際そのように捉えねば、我々は世界そのものに内容を認めることができない。純粋なる働きそのものは、純粋であるが故に、これまた何ものでもないのである。従って現実に存在するのは、部分的でもあり、全体的でもある「形」である。この形というのは、観点によって、部分の意義を持つときと全体の意義を持つときとがあるのである。純粋に全体即部分そのものではなく、全体的でもあり部分的でもありながら、観点次第で、そのどちらか一方と見ることができるのである。理念的形式的(理念的形式と現実的形式について論じたところで論じた)であることによって、世界は初めて具体的に内容を持つことができるということである。つまり形とは、具体的身体であって、具体的環境である。身体は環境自身の表現であり、環境は身体自身の表現であり、相互が相互に内在するとともに相互が相互に超越するのである。身体にとって、内に深まるということは、かえって超越的な立脚地から環境を創造するということである(部分が部分に深まるほど、それだけ全体は全体として深く表現されるのだから)。身体が自己超越によってかえって環境が創造される。しかしそれは同時に、環境が身体を媒介として自己超越的に自己自身を作り、従って身体を作るということである。ある身体と環境との組が考えられるとき、常にこのような相互内在的かつ相互超越的関係が考えられねばならない。つまりそこに第三の立場が入って来なければならない(これが前に私が現実的形式と呼んで論じたものである)。我々は容易に自覚しないのであるが、身体が環境を越えてこれを作ると言うとき、これを「指導する」ものは何であろうか。無論それは外的なものではあるまい。身体が環境を超越するのは、内在的に深まることによってである。しかし身体が単にその身体であるというのみでは、要するに身体は単なる身体に過ぎない。つまり我々は身体の内に、身体に内在的超越的である高次の身体的立場を認めねばならない。この高次の身体的立場は、環境についても同様に高次の立場に立っているのである。そうであるからこそ、身体が自己超越的に、かえって環境を創造することが可能なのである。身体は即環境であるからこそ、より身体的方向に無限に連なるものであり、逆に環境は即身体であるからこそ、より環境的方向へ無限に連なるものなのである。つまり全て形であるものは、身体即環境、環境即身体であり、観点によって身体と見ることも環境と見ることも可能でなければならない。わかりやすくいえば全てに神が宿るのであり、しかも神は絶対的な大なる一者である。形とは全てこのようなものであり、形は形に於いてあり、於いてある形もまたその内に於いてある形を持つのである。この無限に連なる形と形との表現的関係、創造的関係こそが生命の本質であると私は言いたいのである。普通に生命と非生命とがあるように思われるのであるが、実は本質においては全ての全てが生命なのである。非生命なるものはかえって生命というものの一特殊の例であって、それは身体に対する環境ということそれ自体を独立して見たものであり、理念的形式である(理念的形式については前に論じた)。彼ら非生命と見えるものも、要するにそれがいかなる生命に於いて在るか、その正確な所属を見きわめれば良いのである。



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大分回りくどくなったが、要するに我々の身体や日常で見かける色々の身体が生命であると直観されていることは前提であるが、これらが生命ならば、これらの於いてある環境も本質的に全て生命でなければならないのであって、生命は生命に於いて在るという存在の仕方以外に考えられないということである。つまり地球が生命を存在させる環境と考えられる限り、必ず地球自身また生命でなければならない。そして地球が環境であるならば、それは観点を変えると一つの身体と見られるということである。一つの身体は、対等な他の身体との関係において身体でなければならない。地球が身体ならば、相互に関係し合う他の対等な身体がなければならない。それが例えば、太陽系の他の惑星などであろう。そして太陽系自体は地球にとって家族のようなものと考えられるであろう。我々動物的身体を持つものも、やはりまず家族的なのである。さらに人間的である我々は、日常において、色々の人々と色々の関係を持つ社会的な存在である。地球もまたおそらく色々の天体と社会的な関係を有するものであろう。私は単に比喩としてこういうことを語るのではない。実際の事実として、地球もまた一つの主体であり、固有の心を持ち、他の主体と種々なる関係においてあり、一つの大社会を構成しているものだと言いたいのである。しかもそれは論理的に必然的な事実であると言いたいのである。そしてこれがここでの議論の結論である。地球を我々はただ環境としか考えないからこういうことはなかなか考えられない、あるいは考えても荒唐無稽と退けるのであるが、しかし環境であるということはその裏に身体であるということであり、外へ外への方向に考えられるものは実は内へ内への方向に考えられるものである。地球というレベルの環境が、我々の日常的な環境を更に超越した環境と考えられるならば、その地球の主体性はむしろ、我々が内に超越的に深まったところにおいて考えられねばならないということである(私はここから更に進んでパラレルワールド的主体性ということまで考えている)。そして我々自身が日常生活的な環境の形成に、地球的視野からのアイデアを盛り込むことができるというのは、すでに我々が地球的主体性に立っているということである。地球を身体として他の天体と社会的関係を持って、その相互作用の中で得られた何かしら、そういうものが、地球の内部においては、地球的視野からのアイデアという形で浸透して行くのである。地球という一つの主体自体が無数の主体の相互作用から成り立つものであり、それは我々の身体がすでに内に無数の細胞から成るものであるということとパラレルである。しかも我々の内側には単に細胞のように低次的な主体があるのみでなく、細胞の一々が、我々の主体全体の表現であるということからすれば、むしろ霊的に高次な無数の主体の働きを自己自身に受けている、その指導を受けつつある、ということも言えるのである。なんとなれば、細胞の一々が、この私の全体の表現となっているのなら、それらを統べるこの当の私というものが、すでにもう一つ上の次元に上っているということになるのであるから。もう一つ上の次元に上ったからといって、私は単に全体になってしまうのではない、むしろ更に部分に深まるのである。つまり大へはかえって小へであり、深まれば深まるほど、我々の常識的に考えるような、大小の観念そのものがナンセンスになるのである。地球とか宇宙といったレベルの問題も、我々の主体性そのものが内へ、小へと深まるにつれて、身近なレベルに現れてくるようになるのである。それで以上からして、地球そのものも、自己自身の内に、他のより高次の天体の指導を自己自身の身において受けつつあるということである。宇宙というのは、かくのごとく、全てつながっているのである。広さの方向にばかり考えられるのが大宇宙ではない、無限の深さにおいても考えられるのが大宇宙である。根本的には全て点即円ということであり、極小へは極大へということなのである。