哲学研究

おっぱいが大好きです。ガチで実在の問題について考えています。三木清や西田幾多郎が好きです。

自己否定の怠惰

自己否定というのは、考えてみると実に楽なものである。私がいま問題とするのは、ナイチンゲールのように、自ら体を張って社会に大きな貢献を成した高潔な人のそれなど、とにかく根本的には自己否定によって「大いなる自己」を得ることになる、というような、それではない。我々の内でごくごく一般的に見られる、自己否定的アピールのことである。謙虚の傲慢さについて語ったが、自己否定しておけば、とりあえず間違いはない。商人は、本心がどうでも、とりあえず、全てお客様のためです、と自分を丸ごと否定するようなことを「言え」ば良い。

どういうことかと言うと、自己否定とは大抵ただ「言うだけ」のものであることが多く、実際にはそれと引き換えに何か実質的な利益を得ようとするときにそのような態度が取られやすいのである。自己否定は他己否定を裏側に前提していないと、釣り合いが取れない。そして彼は釣り合いどころでなく一方的な「利益」を求めている。そのためには自己否定は形式的であって、真心がこもっていなければいないほど良い。一方的な自己否定というものがあるかに見えて、そういう風に当人も見せかけるが、そこには欺瞞がある。だから私は「何々させてもらう」などという言葉は好きでない。なんだか媚びたものを感じさせるからである。テレビを見ていると、特にバラエティ番組で芸能人がそういう類の言葉遣いを濫発しているが、見ていると(私はテレビは「観」ないのだ)ものすごく心がモヤモヤしてくる。謙虚は美徳であるが、実際に現実に見られる態度としては、たいてい謙虚は傲慢であり、媚びであると思う。真の謙虚さは、確かな自信に支えられている必要がある。傲慢さが決して正しいわけではないが、ただ傲慢不遜な態度は、固より人からヒンシュクを買うことがわかりきっているので、実行するのに大いに勇気が必要な分、まだマシだと私には思える。

ところで実質的な利益とは金に限らない。相手から同情や賞賛を引き出すこともまたそれの内に入る。そうしたことが可能なのは、我々が精神と呼んでいるものは、実はいわゆる物質とは次元の違う物質であるからである。哲学における私のラディカルな身体主義もここに結び付く。定型的な言葉は幾らでもタダ売りできる。無感情に幾らでも発することができる。しかし同情とか恐れとか賞賛とかこうした精神的エネルギーは、相手に無償で与えようとは思えないものである。なぜならそこには実質的な価値が付いてしまっているから。そして、絶妙に相手から精神的消耗を得るべく、自分自身は全く無機質な感情によって機械的に言葉をサービスすることができることによって、我々の社会の一員たる資格を得ることができる。そしてこのような仕組みによって我々一人一人は相手から常に精神的消耗を得続けているのだから、自分の方も、かなりの程度、他人からそうした精神的エネルギーの吸血を受けることを我慢する必要があるのだ、という理屈が成り立つ。それを努力と言うのだろう。しかし私はそうした努力とは無縁でありたいと思う。創造的喜びの妨げにしかならないから。

だが私も日常の言動やブログなどで、そういうことをやってしまうのだ。





自己否定とは、本来、自己の根底を問い直して新たな根底を発見するために為されるべきことであって、先にも言ったように、自己の無価値を確認するためと見えるような自己否定は、実際は他人の確実な精神的ないし物質的消耗を当てにしている。そうでなければ釣り合いが取れないからである。純粋に自己自身のための自己否定において、釣り合いを取ることができるためには、自己そのものがその自己否定を越えてこれを包むものを持っていなければならない。それまで自己自身に発見されていなかったが、地面を掘り進むことによって新たに発見された地下水が、自己の精神生活に新鮮な井戸水を提供することになるとき、初めて自己否定に意味があったと言える。これが釣り合いである。単なる自己否定のための自己否定は、むしろすでにあった井戸を叩き壊すのに似ている。そしてそれを事故のように見せかければ隣村の人の同情を誘える。

自己否定に意味があるのは、行動や態度が根底的に変わる場合と、思索そのものが深まる場合と、二通りある。前者の場合、自己否定のための自己否定という有様にはならない。後者はいっけん無限に自己否定を繰り返しているように見えるが、実はその間にその人の心の内で概念の創造的な進展があるのである。一つのものを巡ってグルグルと回り続けながら、彼はいつの間にか銀河となってしまった。そして彼の心はそれ自身が一つの宇宙となる。彼はあるいは著作という形で、新たな太陽系や星々を生み出し、他者の精神をそれによって啓発することができるかもしれない。私としては是非このような意味での「努力」をし続けたいと思う。

ショーペンハウアーは、賢者は群れないと言い、俗な人ほど群れると言う。賢者は自分一人で満ち足りるのだと言う。つまり賢者においては自分一人の心が、無限に自己自身を満たし続ける泉となるのである。なるほど、沢山の人間に囲まれて、常にそうした人々の厳しい監視の目に晒されながら生きるならば、こうした精神的消耗のバトルにどうしても従事し続けねばならなくなる。しかし自分一人から心の栄養をいつでも汲むことができれば、これにまさる「食物」もしくは「インプット」は存在しない。情報とは外から与えられるものに限らない。例えば立派な古典作品などとの対話を通じて、もしくはただ一人沈思黙考し、自己の心に尋ね続けることによって深い真理に到達するという風に、内側経由のそれもまたあり得るのである。人間精神は、普通に考えられている以上に果てしない深さを持っている。ユング心理学集合的無意識と言われるが、つまり一人一人が結局はその集合的無意識ごとの深さを自己の内に持っているのである。精神的存在である限り、誰でもこの無限の泉から理性と情緒の臍の緒を介して心の栄養を汲むことによって日々生活しているはずなのだが、そのことを深く自覚できている人とそうでない人とがいる。しかし常にこの無限の泉とのつながりを意識することで、自己否定はそのまま自己肯定となることができる。