素人哲学研究所 「ニート」

正真正銘のニートとなりました。哲学ノートや雑感など。コメントも歓迎です。ガチで実在の問題を考えています。西田幾多郎が好きです。

哲学ノート。自己意識も形であるはずなのに、あたかも形ではないと考えられていることの不思議は、そもそもどこから来るか

この頃考えていることを思い付くままに書き出した哲学ノートである。主に私自身のために残しておく。

実際にあるのは、一瞬も止まることなく変わり続ける「形」のみであって、変わり続けるにもかかわらず、自己意識なるものがあるということ自体が不思議なのである。どういうことだろうか。自己意識が、客観と離れてそれ自身の領域を持ち得ると考えられるのは、それが形を離れたもの、形を持たないで存在するものだと、考えられてしまっているということである。しかし実際にあるのは形だけであり、だからこそ現在は捉えようとすれば指の間をすり抜けて行くのであり、形は形へと変化して行くのである。自己意識が現在の中に在ると考えざるを得ない以上、自己意識も形でなければならない。形は常に活動し、生滅するが、常に背後から新たな形が立ち上がって来る。なぜならそれは常に他の形と関係して在るものであり、押せば返し、返せば押すようなものである。常にそのような在り方をしている。認識などというものがある前に、形があるのであり、自己意識も自己意識という一つの形でしかないはずである。しかしそれは自己意識である限り形を越えたものである。形と形との具体的関係から超然としている。私の身体からも超然としている。統覚は単なる機能的なものとさえ考えられる。ところがその自己意識なるものは、この身体なる、ある一定以上の寿命を持つ形に即して理解されるのであり、身体が我々の自己意識の単位なのである。しかし身体は、形でありながら、自己意識に即したレベルで考えると、全く論理的に不変のもの、やはり形でないものとして考えねばならない。つまりそこに統覚と呼ばれるべきものがなければならない。自己意識に即して考えられる身体は、我々が物理的にそうだとみなすもの、時間空間に位置付けられたものではなく、それ自身が自己自身の内に時間空間を持ち、その時間空間の形式を、自己の形の表現のために使用するのである(身体の形はそれ自身歴史が詰まったもので、身体に宿るということは歴史の一々の過程をすっ飛ばしてひとところに捉えるということになる。このことを念頭に置かないと分かりにくい)。なぜ時間空間の形式を使用すると言えるかと言えば、時間空間は形と形とをそれぞれ切り離して、アレをアレとしてソレをソレとして、別々に、全て時間空間なる一つのものの中に位置付けて見るからである。例えば今私はスマホを見ている。しかしスマホが時間空間に於いて在る物である限り、それは私を目を離せば、その時間空間に保たれて、私と別々に存在していると信頼されている。この信頼はどこから来るか。私とスマホが、この自己意識の中に、同居して一体のものであるように見えたのに、実は全然交わっていない、つまり別々に存在しているのであり、ただ時間空間なる地球の定めた形式に従って存在しているということである。私とスマホとの接触は、私にとっては確かな重みを持った経験であるが、地球の時間空間の形式から見れば、ただ両者がヨイヨイ踊りを踊っているだけであり、時間空間それ自体にはこの邂逅は何の影響も及ぼさない。時間空間とは我々の自己にとってよそよそしいものなのである。だが私の意識の体系の中には、私の個人的経験は確かな重みを持っている。個人的経験を個人的経験として確かに体系付ける形式が私の自己意識の中に、地球の時間空間とはまた別個に存在していて、それは時間空間に似たものであるが、いわゆる時間空間と比べれば次元の歪んだものと考えられるであろう(だから人間の記憶や想像は独特の秩序の中にあり、歪んでいるのである)。このように時間空間と私の意識の形式は、全然別物なのである。何と不思議なことか。だからこそ、くどいが、時間空間における他の物との関わりは、実は我々の実際の「私」そのものとの触れ合いではない。「私」は、現に今霊と触れ合っている。肉体によってどこに移動しても、この私の意識に付きまとっている。自己意識とは本来このようなものではないか。時間空間なる積極的なものがあって、その「中」にいるのが私であって、その形でこのような常に自己意識が存在するという在り方はない。時間空間が私とは違うもの、客観的なものと考えられ、常に自己維持をするものであるとともに、私もまた同様に私がある限りそこに常に自己維持的に存在しているものと考えられるならば、私のこのような身体は、むしろ、本来の私が、自己自身の表現のために一時的に利用している借り物の形とみなさねばならないのではあるまいか。認識の制約は、もし単に自然的な生命ならば制約と意識されることすらない。人間においては認識の制約は自覚されている。なぜ統覚なるものが考えられねばならないかと言うと、私の身体的な在り方は、実は環境の他己同一と、私の自己同一との触れ合いによって起こる歪みだからであり、このことを自覚している必要があるからである。私は環境に関係なく、自己同一を保つものであるのに、それがこの地球という環境(我々が今生きているいわゆる客観的な時間空間の持ち手)において、その自己同一ごと、自己存在の全体ごと、自己表現しようとすると、どうしても歪んだ形にならざるを得ない。言い換えると、この本来地球そのものに対等の「私」が、本来の姿のままで自己表現するのではなく、地球の「中」で、すなわち地球に従属して自己表現するとき、その表現の在り方に独特の歪みの様式が生まれて来ざるを得ない。地球においては、様々なタイプの身体が存在し、鉱物、植物、動物、人間に大まかに分けられる。これは、地球という形の内部における自己表現の歪みを、様式化して表現するための型と考えられ、本来の自己そのままと、地球の時間空間に位置付けられるという形との在り方が異質であればあるほど、その様式には複雑な洗練の過程が要求される。しかし一旦この様式が歪みに合わせて整ってしまえば、我々人間は動物植物などと同じ時間空間の形において同居できる。この手で触れることができる。意識の念の形で直接一体化するのではない。この時間空間の中に存在している、この手によって、直接、異質の意識を持つ彼らに、対等の立場で、触れることができるのである。そして直接触れていないときにも、それらは同居していると信頼できる。なぜなら、我々がこの身体に乗って生きている限り、この客観的な時間空間というものが私の、そして彼らの身体を共にそれぞれの形として保つのであるから。バークリーか誰かが、私が知覚しない時にも、物は神が知覚しているから存在するなどと言っているのも、つまり神の知覚を地球の知覚として理解すれば良いのである。
(以上からして、身体というものは、地球の側から見れば、その「自己はみ出し」として理解できるということになるであろう。)

とすれば、本来の自己のままの姿とは、極めて静的なものであり、真に自己自身によって充足するものであり、ただ観想的なものと言わねばならないであろう。それは精神的なものそのものを深く包んだ自然そのままといった有様であろう。おそらくここを直観したのがプラトンアリストテレスであるに違いない。しかしプラトンは、本来の「私」それ自体を見ようとしたが、アリストテレスは、いや、ここはあくまで地球であり、地球という形に合わせた歪んだ自己表現の在り方を、それそのものに即して考えるべきで、それが地上人の弁えだ、と考えたと思われる点において態度の違いがあるのである。ロゴス的なギリシャ的世界観は、まさしく魂の本来の姿を言い表したものであった。なぜ個物的実体というものがロゴス的秩序をロゴス的秩序たらしめるいわば最小単位、基本単位として考えられねばならないかと言うと、我々が肉体に宿っているように、地球上に在る形は、本来の自己意識そのままを、地球環境の中で表現する上での歪みを自己の形として表現しているからであり、単なる単独の自然ではなく、人為的なものを含んだ上での大自然だからである。本来大自然と言うべきものは単なる一であり、見るものも見られるものも、他の形と分離した形もなく、個性は即普遍性であり、わざわざそれぞれの形を云々する必要はない。しかし地球の大自然は、それ自身が、地球に異質な起源を持つ個性と個性とを、何とか歪みを一つの形に結晶させて作ったそれぞれの身体の様式によって調和させる形でうまく共存させ、そのようにして成立した大自然なのである。アリストテレスの個物的実体の考えにも、このような直観が表れていて興味深い。しかし真に自己そのままである意識は、そもそも他なるものを見ず、ただ自己のみを見るということを考えるならば、それは善のイデアとも言うべきものであって、やはりここにプラトン的なものが考えられねばならない。両者の違いは、多分観点の違いだと思う。
(統覚とは、肉体なる形において考えられる不変のもの、形でないものであるが、それは肉体が、ある形相的なもの、つまり種的な一定の様式を持ったものであることと対応している。統覚はロゴスの根底との関係から問題にされねばならない。形を越え無形であることができるのは、形それ自身であることによってであるからこそ、形相は形そのものと考えられるのである。この形そのものの無形性を捉えると、統覚的なものが出て来る。しかし有形と無形は同居しているのである。)

このように本来我々が自己そのままの状態にあるならば、そこにわざわざ統覚なるものが考えられる必要はない。なぜなら、そこにおいてあらゆる状態は、統覚そのものであり、そこから何か凝縮点のように、積極的に自己意識を自己意識としてまとめる何かを自己自身の内に設定する必要はない、すなわちわざわざ哲学の議論の俎上に載せられるようなことは有り得ないからである。何で統覚は自己自身の内に、自覚的なものとして在ると考えられねばならないであろうか。我々肉体人は、今明らかに異質な場所に於いて存在しているからこそ、常に自己意識というものを「意識」せざるを得ない。自己意識というものは、本来ただ在るだけであって、わざわざ意識されることはあり得ないはずである。統覚とは、時間空間の形式があくまでも我々が一時の自己表現のために利用する形式に過ぎないことを示すものであり、また常に時間空間そのものを、相対化し、これを越えたものをその中に投入して行くものとして、つまりイデー的に認識するもの、行為者として存在するものであること、常にこの立場に立ち返るために、その本来の自己への異次元トンネルとして存在しているのである。統覚とは、カントの特別な概念ではなく、今肉体人として生きているその限りで、必ず誰にも存在しているはずの、自己意識点であり、地球内部に形を取るにあたって生じた歪みの全てをここに凝縮しているのである。それは肉体人意識にとっては、アプリオリでしかない。それは肉体人意識にとっては、どこから与えられたか分からない。だが自己意識そのものにとっては、それがある事業的な必要性によってそうなっているのだということが何らかの形で直観されていなければならない。だから我々は、常に自己の「人生」として、我々の経験を理解する。経験は単なる経験ではなく、あくまでも人生経験なのである。それは人生の経験全体が、自己存在そのものの個性を表現したものとなるであろうからである。だからこそフィヒテのような創造的な主観が考えられねばならない。自我は実体化して良いのである、自我が実体的なのは、我々の経験が人生として一つの事業的なものだからである。

これは何度も確認せねばならぬことであるが、我々が今肉体人として存在している在り方のように、自己が、自己の思い通りにではなく、時間空間の客観的形式に従って行為せねばならぬということが、自己意識そのものにとっては実に不思議なことなのである。自己意識とは、自己そのものなのだから、本来自己自身によって存在し、自己自身の存在に他のものを必要としないものでなければならない。とすれば自己意識の動きは、直ちに客観的広がりの動きと一致するはずであって、そこに主観と客観とを区別する必要はない。そこにおいては、私の形と、他の存在の形とは、自然に棲み分けられる。皆、それぞれの心地良い空気のあるところに、自ずから磁力が働いているかのように引き寄せられる。この在り方においては、繰り返すが、主観客観の区別をする必要がない。実体はそのまま観念であり、そこに意識の領域というものを考える必要はない。ところが、我々は、自己意識そのものとは明らかに別に存在している時間空間の形式、つまり地球なる環境の様式に従って生きている。我々は、身体という、時間空間なる環境の形式から与えられた型に従って生きているのである。

つまり我々のこの身体的存在は、要するに、存在するために存在しているのではない。ただ自然に、あるがままに存在しているのではない。そうであるには、あまりにもそれは不自然な在り方をしているからである。本来の自然の在り方においては、睡眠と覚醒の差はあるまい、それは波のように一つの流れにおいて自然に一体化しているものであろう。しかし我々肉体的存在においては、覚醒と睡眠とは断絶している。このことを取り上げるだけでも、その不自然さは理解されよう。睡眠の間には、我々の統覚は一体、どのように活動しているのであろうか。統覚は不変のものなのだから、やはり睡眠中も、全く肉体の休息には全く関係なく、動いていなければならないであろう。我々肉体的存在は、ただ存在するために存在しているのではなく、何か積極的な表現をするために、つまり特定のイデーを、はっきりと形に顕すために、今ここに、我々は肉体的に存在しているのでなければならない。そのために、特に我々人間は、常に肉体の中にあって、自己自身を意識している。自己自身の本来の領域に常に立ち返りながら生活している。私はこの個人的な領域において思考する、独特の感じ方をする。この個人的な領域は、それ自身は地球そのものとは関わりのないものであるはずであるが、地球にとっては、それはこのように肉体を通して形として表現されることによって、はっきりと客観的な時間空間の形式の中に一事実として刻まれる。地球に外的に存在する個性が、地球に内的にそれとして形を取ることができるのである。我々の持つ言葉とかまた記号的な表現、それに基づくあらゆる文化的なもの、例えば芸術芸能一切、学問一切、宗教一切、否日常のごく些細な会話、動作に至るまでこのような個性の、地球の時間空間への刻み出しなのである。




❇︎ 一旦まとめた上で、また更に思い付いたことを書き出して行く

以上書き出したことは、全てある単純な構図から出て来ている。つまり今肉体に囚われた私の意識と地球の自己同一は、他己同一的な関係だということである。だから地球的環境つまり時間空間の形式は、全て肉体人としての私の存在の「根底」から問題にされる。それが統覚なのである。これがテーマである。だったらこの統覚を異次元への連結点とみなして、そこから色々な広い問題が考えられるであろう、ということである。霊的レベルということを考えるならば、我々がこの日常で全くその脈絡を掴めないで不問にしている問題なども、スルスルと納得が行くのである。例えば霊界云々の話は言うまでもなく、なぜ地球上には人種があるか、それぞれの特色を持った文化があるか、ある人とは妙にウマが合い、ある人はなぜか気に食わないのか。こんなことはふと考えるだけで、大抵は流してしまう事柄であろう。自然科学的にも色々の説明がなされているが、実際にはそれらの説明は単に記述的であるばかりであり、真にそれらの脈絡の必然性のところまで迫ることは出来ていない。更には、哲学そのものにも様々な考え方、流派などがあり、それぞれの特色を持つのであるが、その辺の事情も何となく掴めて来るのである。哲学は、諸文化の知性的な部分の最も優れた表現なのであり、諸文化の知性の特徴がそれによって分かるのである。そしてそれぞれの知性的特徴には、内的な連絡がある。なぜそうなのか。この辺の脈絡は、我々が今まであまり考えて来なかったことであろう。

話を戻して少し詳しく説明しよう。我々が肉体的であるということは、実はそのような自己自身が他者であるということである。自己が今、この形を通してしか表現できないということは、そういうことなのである。まず自己の肉体こそが、地球の環境そのものの表現として他者であるからこそ、我々が肉体によって送る日常生活そのものが、全て他者的なものである。今私は一人で、誰とも喋らずにこれを書いているが、しかし私の肉体によって書いているのであり、私の肉体を通してしか自己表現できないのだから、常に私の思い通りにならない他者と対話しているのである。

なるほどなぜ認識は構成的なものであり、単に模写的な受動的なものではないかと言うと、どんな認識も、我々は自己によってそれとして受け取めることが事実として可能であり、この全てを自己の内に取り入れた上で、自己の内容をあちらに刻むこと、つまり行為することが可能だからである。これは確かである。世界が丸ごと私に押し寄せて来ても、私はその全てを不動の統覚のネットによってしなやかに受け止め、全て私の行為の原動力にできてしまうのである。蹴られ殴られたとしても、尚そこに私がある限り、私はあるのである。私の行為がそれまでの全ての認識の上に立ったものでしか有り得ない以上、認識というものは、元々主体的なものでなければならないのである。ところがこのようなカント的な認識論の立場においても、認識される対象は、やはり我々の外にあると考えられる。これは不思議なことではないか。私は常に他者に面しているのである。しかし自己意識そのままである限りの私には他者はないはずなのである。ところが我々の肉体的現実においては、常に、単なる物ですら、いやこの肉体ですら認識対象として、我々を押しつぶす、外的な他者でなければならない。認識の現象が成立するところではどこまでも主体的なものであるが、認識の枠に「物」が入って来ること、それ自体はどこまでも偶然的であると考えられる。これは不思議なことではないか。「感性的な形式に当てはまる」というこの点にまず何かがなければならない。感性の形式、時間空間なる客観的な形式は、つまり、私の意識に対しての肉体の他己同一であり、この他己同一において、私の自己意識の個性を表現するためのトランスフォーマーなのである。そして地球上のそれぞれの存在は、この地球という時間空間の形式に共同して参加することを互いの肉体的生活の根底で了解していると考えねばならないであろう。

まだ分かりにくい。地球というものをトランスフォーマーとして理解するならば色々なことが分かるのである。自己同一即他己同一という矛盾的自己同一は、実在そのものの根本的規定であり、いかなる現実にもかかわらず、全ての全てに存在しているものである。一瞬たりとも、いかなる大きな霊であろうとも、いかなる小さなものであろうとも、そこを離れることはない。全ての全ては、全ての全てとの現在的な創造的関係に於いて在るのであり、ここにおいては単なる観念さえ一つの人格的存在と言っても良いのである。つまり全ての存在は、他の全ての存在と常に繋がっているのであり、触れ合い溶け合い響き合っているのであるが、しかし、例えば地球というトランスフォーマーを使うことによって、あたかも自分自身を、あるものとは触れ合いあるものとは離れているような在り方をしているものとしてみなすことができる。そうすると、このトランスフォーマーを「共に」使用している存在のみが、他の存在として我々の肉体的現実に現れて来得るのだ、ということになるであろう。我々が他者性として感じている一切は、実はこのトランスフォーマーの特殊な性質に基づいているのであり、他者性一切が、実はこのトランスフォーマーと自己とのそもそもの根底的な関係から理解されねばならないということである(以上の見解は、アシュタール大先生のお話を大分参考にしている)。

つまり私がこのように生きているという時点で、この肉体そのものが他者なのである。肉体において生きるということは、一瞬の休みもなく他者に面することであるが、その他者の最も直接的なものがこの私の肉体なのである。だからこそ、肉体的な認識を基準にして考えると、自己意識そのものがある一定の凝縮点のようなものとして、身体とはまた別に考えられねばならない。かといって自己意識は自己意識なのであるから、それは自己の中の特別の領域などでは有り得ず、端的にそれは自己自身であるものでなければならない。統覚のある意味の大げささ(フィヒテの純粋自我に帰結する)というのは、実は肉体そのものの他者性から来るのである。