考えるブログ

考えたことを載せます。哲学。関心のあること。

電子の二重スリット実験というものがあるが、そもそもスリットの淵に波としてぶつかることと、スクリーンにぶつかることと、一体本質的にはどういう違いがそこにあると言えるのだろうか。しかし実験結果は確かに、よく知られる通りに出ていて、「電子がスリットを通るときには波で、スクリーンに当たるときには粒となる」ということが示されている。「当たる」という状態、特にその量子論的な意味での波動性と粒子性を質的に分けるようなそれ、これを一体にどのように理解すべきなのかが、現時点ではわからない。あたかもスリットの淵にぶつかることは、「まだぶつかりとはみなせない状態」であり、スクリーンに当たることは「垂直方向にぶつかるのだから、文句なしにぶつかりとみなせる」という人間的な都合込みの状況設定に、実験そのものがこのような意図を汲み取る形で自らを合わせているように見える。私が読んだ本には*1、このような電子の二重スリット実験で、スクリーンには蛍光物質が塗られていて、電子が当たった場所が光るようになっている、という一つの多くある実験パターンが紹介されていた。もちろん他にもやり方があるそうだが、この例のようなやり方によって、知られる通りの波動性と粒子性とがともに実験結果と推論を通して確認できるならば、やはり始めに示したような疑問に行き着くことになる。他のパターンの実験で同じ疑問が出てきうるかはわからないが、ただし今の例の場合、あらかじめそれによってその真偽等が明らかにされるであろう事柄(その枠組み)がはっきりしており、つまりそのあらかじめの「意図」のなかにある「そうであるか、そうでないか、あるいは未知の結果であればそれがどんな条件に依っているものと考えられるか」といった「答えの様式」そのものがこれを理論的に受け止める研究者の思考そのものの枠組みとしても働くことになるので、上のような疑問は、あるいは実験の条件設定のなかで例えば誤差として認めてもよいようなあり方と同じような「認識の枠」に自動的に入れられ、考慮されることがないか、あるいは考慮されよく考えられ説明されていたとしても、一般向けの本などに書いて説明できるようなものでないか、あるいはその必要がないか、そのいずれかなのだろう。あるいは、さらに、こうした無視されるあり方そのものに、その専門領域における未知の知の枠組みについての何かが含まれているということがあるかもしれず、またそのようなことは、実際学問において多く存在することかもしれない。

ひとまず上の疑問について少し考えて、発想されたのは、電子は空気に出会うだけならば波であるが、スクリーンのようにはっきりと「ぶつかることのできるもの」に出会うならば粒になるのか、といったような想像であるが、そもそもファインマンの思考実験*2においてもわかるように、出会うものが「光子」であったとしても、電子は波の性質を失うことになるわけであるし、「空気」という言葉によって意味されるものの自然科学的内実は、実際そこに「端的」に何をあてることによって理解されるべきかわからない(というよりも、そうした直観的把握がそのまま現実の自然であるためにはどう考えればよいか、その中身が分析されるものであるにしても、その質そのもののそれ自体としての直観態的な概念は何であるか、という方向での問い方そのものが自然科学的ではないのだろう)ために、少なくとも問題そのものがさらに細かく考えられるべき必要が生じてくる。このような場合、自然科学的には、空気そのものの持つ、ある種の物理学的条件を、その固有の物質概念に矛盾しないように、数学を用いながら明らかにしてゆくのだろう。また、上の想像は、そもそも、始めに言ったように、スリットの淵に電子が当たるということを抜かしていたが、しかしこのことを含めて考えても、やはり全く同じ疑問にぶつかる。すなわち何か(直観的には)固いものにふつかったのだとしても、そのぶつかる「角度」が、それが波であり続けることができるか、その性質を失うか、を決める条件であるのだろうか、とここから想像される。こうしたことについての解答を与えてくれる書籍等があるかは、未だによくわからないし、そもそも読みかけの本にある情報から考えているに過ぎないので、ともかくさしあたって疑問を疑問として少し整理するだけにとどめよう。

*1:『「量子論」を楽しむ本』 佐藤勝彦監修、2018、PHP文庫。p. 150

*2:上掲書 p. 163