哲学研究

三木清や西田幾多郎が好きです。

尖端力が渦を巻いた形としての身体

「尖端力についてのメモ」と、「尖端力の機関としての身体」を参照のこと。





我々の身体は尖端力が複雑に渦を巻いた形として成り立っている。というのも、もとをただせば、尖端力は、渦となることで豊かな内容を表現することができるようになるからである。渦となることがなければ、尖端力の働きは、何か具体的な「内容」を含むことはできない。尖端力が仮に渦巻くことがないとするならば、これは単なる直線的なものでしかないことになり、すなわちこれが物理的運動なのであるが(つまり人間の目から見て渦巻き状になる運動も、物理の目に照らして考察すれば諸々の直線的「力」が働き合ったその結果として考えられるわけであるが、しかし私はその「力」自体がもともと渦巻き的であることを言いたいのである)、しかし我々が現に理解するように、物のマクロ的運動もミクロ的運動も、またこのように字を書きつつ物を考えるというような心の運動も、等しく尖端的な働きであるからには、もともと尖端力とは渦であるということがなければならないであろう。してみると、物質をミクロにまで突き詰めて行くと、粒子とも波とも言えぬものに突き当たるのは当然のことではなかろうか。そしてDNAが二重螺旋になっているのもやはり当然のことである。


様々な身体の形の内にある個性的な尖端力

さて、我々の身体も尖端力が渦巻いた形であるが、これは全ての身体について言えることである。動植物しかり、菌類然り。そもそも遺伝子の形からしてそういうものなのだ。そうすると、社会という身体についてもそうであると言えるのではなかろうか。社会が歴史的であり、時代とともに何かしらの方向へ向かって行くものであるということがあるからには、これがまた尖端力的である、その在り方が考えられねばならない。

大自然に四角いものがない(あっても、人間の観測と思考によって捉えられるものである)とすればなぜ人間の社会は四角ばかりで成り立っているのだろう。そこにも何らか円とか渦巻きのレプリカという意味がなければならないはずである。三角にしてもそうである。ゴツゴツした山の形から三角を抽象するのは人間の心である。教科書に書かれた三角も、そのものとしては自然に属している。属しているから、インクやら紙やらの都合で、実際にはゴツゴツしたものである。しかしそこから三角を抽象するのが人間の心である。

このことは、曲線的なものでしかあり得ない渦の内部に人工的に直線を巻き込むという形での、独特の尖端力の存在を物語っている。そしてそれが人間的存在の根底にあるイデーに直接関係しているのだろうと思う。

一次元の円は、その中身は直線であり、円周は中心から等距離の二点である。三角とか四角というのは、一次元の円を組み合わせることによって、擬似的に二次元の円に近づけようとしたものと見ることができるのではないかと思う。円周率が三と四の間であることを求めるのに、内接する正六角形とか外接する正方形を考えることもこのことと繋がってくる。つまり擬似的に近づける、というそのこと自体の内に、我々の社会が「身体」としてどのような性質を持っているかということについて何か本質的なことが含まれていると言って良いだろう。これは、ロボットを生身の人間の身体に似せて作ろうとしたときによくわかる。カクカクと、どうしても、なってしまう。それがロボットの可愛さでもある。どんなに精巧に作られていたとしても、あの非生命の何とも言えない機械っぽさを隠すことはできない。しかしこれは根本的には社会という「身体」の存在の問題であって、すなわち低次のパーツの組み合わせによって、何とか高次の直接の「自体」に似せようとするそのこと自体にこのことの原因は潜んでいる。だから、科学技術の直線的な発展の先に、本当に生命あるような、もしくはそう言って差し支えないようなロボットが誕生するはずはないのである。

貨幣経済というのもまた、このようにして考えられそうである。なぜなら貨幣経済とは本質的には金の流れではない、本質的には「人間の社会に通用する価値を伴った物と人との流れ」であって、つまり単なる自然運動としての物と人との流れとは区別されるという意味でのそれであるからである。しかしそうした本質から、ただちに貨幣という価値基準の固定化のモトのようなものが生まれてくるはずはない。物は必要に応じて、必要なだけ、流れれば良いもののはずだからである。だから、貨幣経済そのものの不自然さは、実際のお金というものの形にも現れている。硬貨ならばまだ形は丸い。しかし貨幣としてより抽象性の高い紙幣となると、四角形になってくる。そして貨幣そのものの流通の制度も、根本的に、人工的に四角いものである。

三権分立と言われる構造もまた、三角である。しかし本当は三角というよりも円こそがバランスの原理であり、ただ三角はこれに似せたものと考えられるのである。二つだけだと、単なる一次元上の円しか描かず、都合が悪い。しかし、三つあれば、二次元上の円が手に届く。

こういう風に、一次元上の円をもってどうにか擬似的に二次元上の円に近づけるというやり方では、尖端力を分散できるというメリット(そしてそのまま裏返しにデメリット)がある。二次元の円では、円周の全てが、渦巻きとして、一つの方向への尖端力のモトとなるのであるが、三角とか四角とか六角とかでは、辺の一つ一つを、とりあえず別々の尖端力としてみなすことができる。そうすると、今度は、全体の擬似円(すなわち三角とか四角)を構成するために、全体がただ集団的にまとまるのではなく、それぞれのパーツごとの働きとして、分業が可能になる。人間だけは、意識的に分業する存在なのであるが、それは本質的には、こういう風な擬似円というものを尖端力のモーターとして使うことによって、分業を可能にし、だから部分部分に専門的な知識的な技術的な蓄積を可能にし、分かりやすく言うと、高度な人間社会を作って行くためである。

とはいえ、擬似円も、それが円を本質とすることにおいて初めて意味を持ちうるのであり、いつのまにか三角が単なる三角、四角が単なる四角となってしまうのでは、道理に合わぬ話である。ところが、我々の今生きている時代というのは、そういう道理に合わぬ在り方そのものを基盤として成り立っている。そこで、例えば、先に言ったように、ただ「人間社会で通用する価値を伴った物と人との流れ」というに過ぎないものが、いつの間にか、「金」という固定した価値の基準によって専ら回って行くようになる。三角が円の主人であるような振る舞いをすることになるのである。しかし三角は、四角は、それ自体として意味があるのではなく、またそれ自体として合理的であるのではなく、あくまでもそれが擬似円であることにおいて意味があり価値があり合理的であるのであって、パーツとパーツが組み合わさった全体としての三角、四角、五角は、それがまた最終的に大回転して本物の円になる(しかし内側にたくさんの星形を含んだそれになる)ということを前提しているのである。星形(もしくはお日様形)は、三角とか四角が回転することによって得られる。星形の背後に三角とか四角の回転を見出し、またその回転の行き着く先として円を見出すのは人間の心である。西洋人はこれを理性と言った。だからカントにおいても理性は単なる四角四面の合理的なもの形式的なものであってはならなかった、そこに感性との付かず離れずの関係を必要とした。そして全体の生命ある媒介力として理性が考えられた。その線を徹底したのがヘーゲルであり、ヘーゲルの言う理性とは、まさに直線的でありかつ円環的である、ということであった。哲学は、こういうシンプルな立脚地にいつでも立ち返ってみる必要があると思う。