哲学研究

実在の問題について自我流で好き勝手考えています。三木清や西田幾多郎が好きです。

「重ね合わせ」の認識論の試み (4) 諸感覚、学問、その他について

(3)の続き。まだ書きかけのところがたくさんあるが、そうしている内に新たに考えるべきことがたくさん出てきたので、とにかくこれはこれとして投稿してしまおう。

芸術と学問…(3)を参照

芸術…(3)

音楽を手がかりに…(3)
芸術一般についてのまとめ…(3)
現象としての「音」と感覚としての「音」の区別についてのメモ

と、ここで、先に進む前に、ちょっと立ち止まる。

ここの「音」についての議論では感覚というところから見えてくる音への議論に偏っていて、現象としての音そのもの(これは我々の「知覚」に対応するだろう)と、この感覚としての音の区別はどう考えられねばならないかということについて詳しく論じていない。このことについては一応感覚がそのまま現象であるという観念論的な立場から説明できそうにも思われるし、またベルクソンはその独特の生命の哲学から見事にこの辺のことを説明してもいるが、まだ考えるべきことはある。安易に心身一如とか世界と我は一つだとか言って片付けてしまって、考えるために考える喜びを奪うべきではなかろう。実は結論そのものはそこまで大事でなかったりするものだ。

それで音そのものと、音への感覚との区別である。例えば、単なる音というのは、自然現象としてどこにでも転がっているものであるが、楽器の音や電子音というのは、明らかに、その現象としての音の鳴り方の特殊の「質」を意図して発しようとして作られたものである(そしてこの音の「質」に、人間の感情が対応していると考えられる)。こういう風に意図して特定の「質」の音を発しようとすることが可能なのは、音が形を持っているからであろう。そして音の形というものが再現性を持つからであろう。ここに必要な操作は、一度感覚において捉えた「形」をまた現象の枠に戻すということである。一体この音の「形」というのは、現象としての音に属するものなのか、感覚としての音に属するものなのか。無論最終的にはこの区別は無意味にならねばならないが、一応このあたりのことについてよく考えて行かねばなるまい。

普通に現象としての音とされるのは、空間内にある空気の振動現象(弾性体のこと)であって、音波が人間の身体の鼓膜などを通ってやがて聴神経へと到達してそれが音の情報に変換されることで最終的に脳内で「音像」となると考えられる。つまりこの空気の振動が現象としての音であり、「音像」の方が、感覚としての音として、つまり実体と観念の関係としてはっきりと区別される。

しかしこうした区別というのも、すでに多くの哲学で議論されていることだが、つきつめると私の意識内の観念と観念との関係であって、本質的な区別ではない。つまり問題は、自然科学的な「客観性」の根底となっている空間という概念と、我々が感覚として受け取る音とが一体どういう関係にあるのか、ということである。特に、自然科学的にはただ単に観念的と片付けざるを得ない感覚の「形」(クオリア)の客観性が真に説明できなければ真に科学的となることはできない。

それで、我々が空気の振動と考えるものは、我々の身体そのものが常にそこに於いてある「空間」に直接属するものと考えられる。同じ「空間」内の実体と言っても、それは手に触れられ見られ味わわれ嗅がれるものではないから、すなわち空気の「振動」そのものが音の「実体」と考えられるのであるが、これら全ての感覚的なものの客観的な根拠と考えられる空間とは、私の身体の自覚の形式であって、むしろこちら側にあるものである。我々にとっての直接の現象というのは、そこにいわゆる非現実的なもの、例えば空想妄想の類も含んだものでなければならないのだから、それがいわゆる空間の形式に当てはまったものである必要はない。むしろ空間の形式とは、我々の自己が現象を「事実」として位置付けようとする(更に言うと身体の働きかけの範囲、もっと言うと身体の浸透の範囲とみなす)その「要請」によって存在しているのでなければならないであろう。ここから帰結するのは観念というものがそれ自身実体であるのでなければならないということである。その表れがどこに見出されるかについては、我々の「感覚」というものが普通に「実体→観念」という流れから考えられるのに対して、「観念→実体」という流れが現に見出せるかを考えてみれば良いであろう(私の感覚論はこの両方向を扱っているつもりである)。もしこの両方向が満たされるなら、そのどちらかを主の位おくことはできないことになり、したがってそこに真に働いているのは何か第三の立場それ自体だということになる。さて「観念→実体」の流れは次の事柄の内に見出される。我々の世界には、上に言ったように楽器というものがあり、それらは明らかに特定の質を持った音の「形」を再現するものとして作られている。そして作られたものは言うまでもなく実体の世界にあるものである。実体の領域それ自身に、我々の観念的内容と考えられるものがすでに埋め込まれてしまっている。我々が物を「作る」ことができるのは、我々の自己の観念的な像がそのまま現実の「実体」になるという信頼があるからであろう。このように実体と観念との断絶をいつの間にか飛び越えてしまっていることの背後にあるものは何かと言うと、それは世界がもともとそうした在り方をしているということ以外にこの答えを求めることはできないであろう。では「そうした在り方」とは何か。これは「作る」ということである。全ての事実が「作る」ことだと理解せねばならないであろう。これを西田は場所の自己限定と言った。「作る」とは一体どういうことであるか。我々の世界には技術というものがあって、この技術というのは、自然科学がやっているように実体的な自然法則を明らかにし、かつ人間のイデアというものも脳内の運動に帰した上で、それらがあくまでも科学的に噛み合ってうまく人間のイデアなる仮象に対応する形を作り出すことのできるための、道筋と考えられる。何かを作るということは、こうした「技術」に頼るということであり、もし彼が意識的にこうした意味での技術に頼らないとしても、実は彼は潜在的にこうした科学的知の明らかにする具体的な物質的過程の道筋すなわち技術というものに従ってしまっているのだとさえ考えられる。ところが果たしてそうであろうか。技術とはそもそもそういうものではあるまい。技術とは私の身体がいま為そうとする働きかけに必要な分だけ、あちら側にあるものを「身体化」するということである。(断)

空間の形式がすでに観念的であるとすれば、そして観念の形が空間にそのまま埋め込まれることができるということは、もともとここにこれを越えてこれを包む真の空間すなわち西田の述語となって主語とならない「場所」があるということであろう。場所というのは、それ自身実体に属するとも観念に属するとも言えぬものであり、また実体とも観念とも言い得なければならないはずであり、それ故に、その実は観念的なものであるところの「空間」の形式に対して逆に我々は「実在の枠」という資格を投影することができるのである。なぜなら空間とはもともと、実在的でも観念的でもある「場所」の自己限定としてあるものだからであり、「空間」となったとしてもそれは依然として「場所」自身であるからである。空間が空間として限定されることによって実在と観念とが離れ、私の精神がこちら側にはみ出すのである(これがデカルトの二つの有限実体と、無限実体であろうと思う)。

すると今度は、我々が空気と考えるものも、実はそれ自身「作られたもの」なのではないかと考えられる。空間の形式は、我々の自己が現象に「事実性」を求めることから要請されるものだと言ったが、これを端的に言うと、このとき空間というのはすでに我々の自己のイデー圏内だということである。音そのものは視覚的な形を持たないと考えられ、その根拠は、要するに現象としての音は実は空気の振動でしかないということなのだが、今空間というものがイデー圏内であることを見たように、空気の振動としての音にもすでに形があるのでなければならない。かつて万物のアルケーを「空気」だとしたアナクシメネスの考えがここに想起される。

そうすると、我々が「作る」ことによって、感覚としての音の形を現象の枠の内に嵌め込み返すことができるというのは、ここから考えられるのではなかろうか。音楽について論じて言ったように我々の聴覚「自体」は、いわゆる聴覚を越えてあり、またいわゆる五感を越えてあるのである。しかしそれがただ単に主観的なものであるとすれば、我々の世界には音楽というものは存在できない。我々の世界に、その実行にどうしても客観的世界そのものを必要とするような、こうした物事が存在するのは、いわゆる空間というものがすでにイデー圏内であるからである。

聴覚が「音自体」でなく、「空気の振動」に帰されるわけ

さて、なぜ我々の聴覚と考えられるものが、このように「空気」の振動に帰されるか。それは先程も言ったことだが、全ての認識は視覚的なものでしかないからである。すなわち聴覚としての聴覚ではなく、認識としての聴覚である限り、それには視覚的拠り所が考えられねばならない。ただし、空間というものは少し厄介な性質を持っていて、それは我々の感覚がこれを前提するもの、感覚以前のものとして考えられている。したがってそれは視覚以前のものだとすら考えられている。ところが実際には空間とは、場所の抽象的な限定であって、すなわち場所の自己疎外である(というのはつまり、「我あり」の精神がこちら側にはみ出すのだ)。疎外とは視覚の本質なのだから、空間とはすでに視覚的なものでしかなく、それ故に我々が普通に非視覚と考えるもの、すなわち聴覚その他の感覚も、この空間の内で生物的身体の感覚器官による感覚だと考えられる限り、どうしてもそこに何らかの「視覚的」なものが考えられねばならないのである。そういうわけで、聴覚には、空間に属するものである空気の振動というものが割り当てられるわけである。

そしてこの点において、先に音楽において音が音であるままに「形」を持ち空間的となると言ったこと、すなわち響きが場所を持つと言ったこととは全く事情が異なることがわかる。単なる客観的な知覚現象として考えられる音には、一応視覚以前でもあるような「空間」が前提されているのであるから、それは視覚とは全然別のものとして理解され、それ故に自然科学は安心して感覚器官としての耳と聴神経と脳との働きというところに我々の聴覚の全てを帰する。しかしここで論じているように、空間それ自身の非感覚性というのはまやかしでしかなく、むしろ感覚が空間を限定するのである(カントが「認識が対象を限定する」と言っているように)。すなわち実際にはこうした過程は私がここで論じている意味での視覚を通ったものであり、そして聴覚が視覚と単なる別物と扱われること、すなわち疎外的に見られること自体がその証拠である。聴覚はすでに視覚的であるのに、いわゆる聴覚の概念においては、そのことが覆い隠されている。ところが響きが場所を持つという「音楽」においては、明らかに音の空間性そのものが自覚されている。実際これらの区別は本質的な区別ではなく、見かけ上の区別である。普通に現象でしかないと考えられる「音」もすでに感覚であるし、感覚でしかないと考えられる「音」もすでに現象であると考えられる。ではこれらの二つの質の音の違いは何かと言うと、結局はそれらの感覚が「表現」される「形」の違いと言うほかないであろう。そして形とは作られたものである。もし鈴虫の鳴き声に独特の「形」を我々の自己が見るならば、実は我々はすでに鈴虫を作られたものとして見ているということでなければならない。ヘーゲルの考える「絶対精神とは私である(意訳)」というのと同じ意味合いにおいて、我々は鈴虫を作られたものとして見、事実私がそれを作ったのだとも言えるのであり、そのために今度はその独特の音の「形」を真似て、そうした楽器を作るなり電子音を生み出すなりすることが可能なのである。それは具体的な感覚としての聴覚というものが場所を持つからであり、我々が外的に空間と呼ぶものがこの場所の自己限定によって成り立っているからである。

では今度はなぜ、その空間の内の空気の振動というものが特に「音」に割り当てられると考えられねばならないのであるか。これは次の「匂い」についての議論でだんだん明らかになって行くと思われる。

「匂い」について

さて、聴覚のところで云々した「空気」とは、匂いがまたそれであるところのものである。匂いとは、特定の質の「形」が空気に溶けて一つの色合いになったものと考えられる(とすると今度は「色」とは何か問わねばならない)。これは音が「形」そのものを一応保ってると考えられ、その分視覚的であるのとはまた異なる。音が空気の振動だと言うのは、要するに音は「発せられるもの」であり、矢のごときものであるが、匂いとは発せられるものであるにしても、その実体としてはそこに漂っているものであり、我々はそれを(断)

ここで想起されるのは「雰囲気」という言葉である。単なる空気の漂いなるものと異なって、(断)
雰囲気とはやはり「匂い」(断)
また、音楽は聴覚的なものでありながら、高度に視覚的なものだと言ったが(断)

思うに「共感覚」と言われる現象はこうした事情があるために起こることであり、すると自ずから帰結するのは、共感覚とは私がここで語ったような身体・感覚の在り方を持っている全ての存在が持つ感覚だということである。共感覚を持たないとは、共感覚を持たないということでなく、ただ単に、実際にそこに存在はしている共感覚を、まさに共感覚としてすなわち「形」として自覚する必要がないということによってそうであるに過ぎないのである。私がここで繰り返している題目をもう一度唱和いたそう。全ての感覚は全ての感覚を含み、すなわち全ての感覚は唯一の感覚の自己分岐である。また、見ることの底に感じることがあり、感じることの上に見ることがあり、見ることと感じることとは常に回転している。またこれを原始身体と言う。テストに出ます。



「色」とは何か

上に「匂い」について論じながら「色合い」などという言葉を使ってしまったが、一体色とは何であろうか。色というのは、形とともに、一応視覚的に掴まれるものと考えられる。そして色の変化のありようには、明度、彩度という区別がある。そしてこの二つの尺度が複雑微妙にグラデーションを為して、溶け合い溶け合いしているのが「色」の世界である。

さて、色が「溶け合う」ものであるということ、この点はおそらく深く注目すべきであると思う。形と形とは普通溶け合うとは言わない。形がいかに溶け合おうとしても衝突してひん曲がって新たな形となって元の形の面影などはなくなってしまうように、本質的には線と線との関係である。円は円であり、三角は三角であり、それ以外ではない。これらが溶け合っても、美味しくはない。形はツンツンしてこそ形である。しかし色においては、溶け合った先に、溶け合う前のものがそのまま保存される。形というのはただ平面的なものであって、互いに疎外し合うものであるが、色はただ平面的である(断)

さて、色覚を持たない動物などいるが、それらはただ色をモノクロとして見ていると言えるのであろうか。実は、彼らも色そのものを「見ている」のではあるまいかと私は言う。ただ、そもそも先程から何度も言うように、疎外というのは全て視覚によるものなのだから、視覚において非視覚的であるような認識の仕方が密輸入されているような人間においては、色と色とがやはり区別される。ところが色覚を持たぬ動物においては、そもそも視覚は視覚だけであれば良いのであって、その同じ豊かなの色合いが、すなわち白黒や赤紫黄やは様々な中間色とがそのままそっくり見えていても、その豊かな色合いの中から、ある一定の質をそこに見出してこれを区別する必要はない。ではそのままそっくり見えている、というその客観的な視点は一体どこから、と問うに、それは自然科学においては単なる客観的世界からであり、色とはただ物理的現象なのだ、と答えるであろう。しかし私の感覚論はそう甘くない。客観的とは何であろうか。客観的空間がすでにそれの抽象化であるところの「場所」(断)


「手触り」とは

(断)






学問

ふう、一旦区切って、今度は学問の方へ進もう。芸術についてはこうした感覚論で考えやすいと思うが、今度は「思考」を主体にした学問一般は、どのように考えることができるであろうか。学問はロゴス的なものであって、視覚的でなければならない。しかし単なる視覚というところから、学問的な意味での「視覚」なるものが出て来ることがないのは言うまでもない。そもそも学問それ自体は、文字に書かれ、あくまでも視覚的な体系として理解されるものでしかないが、学問の扱う対象そのものは、視覚的でなくたって全然構わないわけだ。心理学などは、人間の心を扱うのである。しかしどんな事柄を扱うにしても、最終的には視覚的な体系の形でメタ的にまとめるのが学問である。とすると、このような学問の「視覚」とはどのようなものだと理解されねばならないか。

ここでもう一度確認すると、視覚というのはあくまでも「疎外」を本質とするのである。*1何かと何かとを疎外させるのも視覚であるが、何かと何かとが疎外したその有様を一歩離れて客観的に見るその視点もやはり視覚であろう。一般に学者が大学に隔離されているのも突き詰めるとこのためである。するとやはり、前から言っているように視覚とはどこまでもメタ的なものと考えられる。メタの方向そのものの先にある極限が視覚だと考えられる。しかも視覚がメタ的になってゆくその在り方は、ただ単に視覚が視覚自身に潜り込んでゆく、という単純な構図ではなかろう。なぜなら、感覚が深まるというのは、ここで何度も言うように「感覚の体系の中心」ごと深まるということでしかなく、したがってメタ視覚と呼ばれるべき感覚には、すでに聴覚的な、触覚的な、味覚的な、嗅覚的なメタ化をも含んでいる、ということになるからである(全ての個別の感覚が全ての個別の感覚を含んでいるということがなければ、感覚と感覚とを「重ね合わせる」すなわち感性と悟性とが合体することができない)。すると、メタ化そのものはあくまでも「感覚の体系」ごとでなければならないが、そのメタ化した立場そのものの「中心」をどこに定めるか、という点には自由があるように思われる。学問とはこのような「中心」を純粋な視覚に定めようとすることによって成り立つものだと言ってよいのではなかろうか。そして定めた中心は、我々の行為によって、世界に「形」として生み出され、それによって私の身体をそこに重ね合わせることが可能になる。この場合重ね合わされる私の身体とは極めてロゴス的なものであり、そのためにそれはほとんど単なる精神ではないかと思われるほどである。それ故に学問においては、全ての物は、他の物から区別され(視覚の本質である「疎外」から)、原則的には全ては諸記号とその体系、もしくはそれに準じるものによって表現される必要がある。どこまでも非合理なものを対象にして行くユングの無意識心理学といえども、やはり「シンボル」という記号に代わり得るものを使用せざるを得ず、それによって我々の無意識の非合理的な働きが、一応体系的に学問的に表現されることが可能になるのである(無論ユング心理学をこれだけで片付けてはいかぬのだが、ここではこれについて議論しない)。つまり、ここでは全てを「疎外」において見る必要があり、全てを疎外として見るところの学問という立場そのものもまた、他の全てから疎外したものとならねばならない。それぞれの学問がどこまでも専門的となり、概念相互の区別と定義があくまでも厳格に行われる必要がある。これが純粋に視覚的である、ということである。

無論それは理念的なものでしかない。現実に学問というものが純粋視覚を独占することはできない。なぜなら、どこまでも深まって行くメタ的感覚の中心を純粋な「視覚」に定めようとする、というだけであれば、それはインド哲学的な意味での、あるいは禅宗的な意味での「観じる」ということもまたそうした説明に当てはまるものだからである。純粋な視覚に中心を置こうとするだけでは、いわゆる学問と、観じるということとは区別できない。これは一体どういうことか。おそらく純粋な視覚に中心を置くことが直ちに学問であると理解するのが、西洋社会の「気分」である。無論それはあくまでも「気分」なのであり、ときにはそうした気分を超脱した人間が西洋社会にも存在はしたであろう。が、とにかくそうした気分というものが存在することは疑いえない。*2するとわかるのは、おそらくヘーゲルが学問とか哲学とか絶対知という言葉で表現しているものは、実際にはこうした西洋社会的な気分から自ずから出てくる独断であって、すなわち個人としてのヘーゲルの本当に言おうとしたことは、あくまでも理念としては純粋な視覚は、学問であるということであって、したがってこの二つのことは、生命とその表現との関係のように、あくまでも切り離して考える必要がある、ということだ。そしてヘーゲルの論じていることが現代哲学的な観点からいかに時代にそぐわないようなものであるように思えたとしても、ヘーゲルの言わんとする「理念」そのものを否定したことにはならないということを我々は認識しておく必要がある。学問とはあくまでも理念としては一般的、普遍的な論理を目指すものでなければならず、ただそれはどこまでも理念であるが故に、現実にはそこに無数の表現が生まれることになる。それは、西洋社会的な「気分」に貫かれた学問的世界の内では、ただ、様々な学問的立場があるよね、といった程度のことでしかないのかもしれないが、広く世界を見渡すと、さっき言った「観じる」のような表現の在り方もあり、また全く我々の想定していないような別の表現の在り方が存在しているかもしれない。

さて私が、こうした関係、すなわち純粋な視覚と、学問や観じることとの関係、つまり「生命」と「表現」との関係にこだわるのはなぜか。それは、感覚というものも表現と切り離して考えることができないからである。普通に我々が(と言うよりも科学が)感覚と呼んでいるのは、すでに「思考」によって体系化された生物的身体を想定した上で、その働きとしての感覚であり、実際に我々の直接の感覚そのものを(断)

これはつまり、我々が「思考」と呼んでいるものがどこに(断)
(メモ:上にも少し触れたことだが。「表現」から思考が出てくること。これによって「観じる」から区別される。そして表現とはあくまでも身体的なことがらであるということ。身体とは作られたものから作るものへ、であるということ。「観じる」ことは、私の身体を作るものと作られた身体とが一致することであり、したがって被造物でありながら創造者と一体化することを目指す神秘主義というものもまた、作られたものから作るものへ、すなわち表現的というところから考えられる、ということ。我々の存在がそこに入った現実として現実を考えるならば、それはイデーによって形成されるべきものでなければならない。イデーとは単なる主観的信念ではなく、むしろあちらから来るものだ。その「あちら」とは動植鉱物大地海空気宇宙全てが含まれているものだ。もしそうでなければ私は世界の一員として含まれていないことになり、したがってここに文字を書き、自分の見解を世界へと投げかけることも無意味である。なぜ私の書く文字が、発する動植鉱物大地海空気宇宙と直ちに同居することができるのか。それは彼らが彼ら自身の実存においてこれを許しているからではないか。私は、感覚の体系の中心が深まると、感覚そのものが溶け合うとともに、感覚されるものと感覚するものとの区別も付かなくなると言った。それは要するに我々の自己が現実そのものに没入していることと考えられる。つまり感覚が深くなるほど、そこにあるのは我々の存在ごとそこに入るということであり、すなわちそれが行為である。感覚と思惟と意志と行為と実体と現象とが分かれるのは、視覚による、もっと言うと思惟による「疎外」によるものだ。さて行為は必ず何らかのイデーに支えられねばならない。翻って考えると、我々の単なる無味乾燥な認識もすでに行為だと考えられ、物のイデアを見るということも、すでに私の行為的直観の意味を持っていなければならない。ここで論じないが、イデーとはまた神話的感覚である。)



パソコンやスマホが存在する意味

私は今音楽を聴きながら、スマホのメモ帳にこれを書いている。また書きながら、調べ物をするために、時たまブラウザを開くこともある。少なくともここには心の視覚と心の聴覚(と心の触覚?)とが思いっきり同居してしまっている。スマホというこの不思議な石の板、これは一体何なのか。考えずにはいられない。

スマホとは作られたものである。では何によって作られたか。人間の発明によってである。具体的にどうやって作られたか。人間の身体がえっさほいさ一生懸命働いて作ったのである。では何によってえっさほいさすることができるのか。設備?製造法?職人のカン?なるほど、すなわち「技術」によってである。そして物理学、化学、工学といった学問の知識によってである。 ではその作られたスマホなるものがどうやって私のもとにやってきたのか。ざっくり言うと社会を通して、そこに住む人間を通してである。ここまで観念的な複雑中紆余曲折を経た挙句、手で、指で操作し目で見る耳で聞く「石」として、実にシンプルに私の身体にぴったりはまるような形で、今ここにそれが存在しているのである。実に感動的である。そして私の身体はこのスマホを利用してまた、新たな「作る」を行っている。その結果がまたインターネットなどという電脳空間に生み出される。これがヘーゲル弁証法的過程そのものでなくて何であろうか。西田の場所の自己限定そのものでなくて何であろうか。

どうもこのスマホとやらには(またパソコンも同じことだが)、私が上のお経臭いくどくどした議論の中で一通り考えてみたことが、上手に詰め込まれているらしい。哲学にはこうした答え合わせ、すなわち観念が現実によって証明されるということが必要である。

「インターネット」なる電脳空間が一体

さて、今何気なく「インターネット」なる電脳空間について触れた。先に私は空間についての議論をしたので、これは論じないわけにはいかない。そしてここでも先程と全く同じ論法が通じてしまうのである。(断)






考えるべきこと

ともかく「浮き出」の理屈から、感覚というものを一通り考えてみた。様々な問題を包摂するためには、一応この構図でよろしいように思うが、やはりモヤモヤする。このモヤモヤは何であろうか。

なるほど疎外は視覚によるものだとして、とにかく身体と身体の外の諸物との関係とか、空間とか時間とか、価値意識とか、私の思考や情念やイメージや意志だとかの面倒な問題はとりあえずほっぽり出しておくことができた。なぜならそれら複雑な「分かれ」ということ自体がすでに視覚的に物事を見たことから来る副産物に過ぎないからであり、実際には我々の目の前には、形しか存在しないのである。いや「目」の前ではなく、この現実そのものとは、ただ一面、形と形とが形しているその形でしかないのである。

とは言っても、やはり身体と物とは別にあるものである。視覚というものが一応身体の感覚と考えられる以上は、その視覚というもののよって立つ身体というものが、どうして私の精神にとって常に「ここ」にあるものであって、それに比べて諸物の方は私の精神にとっては偶然的なものとして存在するのである。ところがそれらもそれら「自身」としては、常に「ここ」にある、すなわち自己同一と考えられねばならない。常に「ここ」にある、ということすなわち身体的ということがすでに多層的に考えられ、ズレている。一体これはどういうことか。ここを問う必要がある。そこで、これらの質的に異なるものを同じ場所において関係付ける「精神」なるものが差し当たって身体とは別に必要になってくるわけだ。無論私の立場では最終的には「身体一元論」でこの問題を片付ける必要があるのだが、とにかく今言ったような質的区別というのは、どこまでも重く見られねばならないことであり、ここにとどまってどこまでも考えを深めて行った上で、慎重に一元化の作業を行う必要がある。ここで少し解決の道を示しておくと、要するに私の身体主義とは、ただ身体が身体であるというそのことにおいて、こうした質的区別がそのままそこに考えられねばならない、ということであって、身体が身体自身であって身体自身ではない、という理屈が成り立つような理論を考える必要がある。私の身体にとって、この私の身体自身が偶然的なものであると考える必要があるのである。実は、「身体遠隔操作論」というのは、こうしたことを考えるためのアイデアノートとして書いたものである。

それはともかく、ここで私が言っている視覚というのは、無論単なる身体の感覚としてのいわゆる視覚のことを言うのではなく、上に論じたようにそれ自身「感覚の体系」ごと呑み込んでどこまでも深まって行くものであり、したがって今言ったような質的区別すなわち一即二ということがそのまま含まれたものである。視覚「そのもの」を敢えて問うならば、それはメタ的方向に考えられた極限と言わねばならないのだが、実際の具体的な視覚とは、単に視覚だけの視覚でなく、むしろ五感全て、いや第六感など含めてあらゆる感覚がそこに含まれたものでしかなく、根源的な感覚(性覚)の一派生と考えられるものでしかない。実際の視覚とは、どこまでも身体的であり、自覚的なものであり、たとえそれが純粋な視覚だと考えられる局面であったとしても、そこには身体的な何かがこちら側に即していなければならない。すなわち、例えばデカルトの「我あり」においても、彼の現実ば決して一面の「精神」にはならず、結局は精神と物質というどこまでも独立的な二つの領域が考えられねばならなかった。それは要するに我々が精神と言っているものがすでに身体的であるからではなかろうか。身体には、どこまでも自己自身である部分と(断)


*1:そうすると触覚は「接触」を本質とすると言えるのであろうが、そのこと自体のためにかえって疎外「的」であることになる。我々が触覚と言っているのは、視覚によって反省したものだからである。例えばスイッチというのはあくまでも電気回路に組み込まれることによって意味を持つのであって、そして普通にスイッチと言ったときに我々はすでに何らかの回路、すなわち何らかの全体的なものを前提しているものであろう。スイッチとはオンとオフとで成り立つが、スイッチの「オフ」に意味があるのは、それは回路という全体に組み込まれているという意義があるからであり、さらに言うとその回路そのものがまたそれを包む現実に組み込まれているという意義があるからであろう。オン、オフは、すなわち単なる触覚はそれ自体意味を持たないが、このようにその周辺の事情まで含めてその系を視覚的に一つの体系として見たときに、オン、オフ、すなわち点と点とが疎外しているか密着しているかというのは、その場全体にとって大きな意味を持つことになる。スイッチの「オフ」という疎外は、単なる接触の疎外でなく、その場全体の疎外に関係してくる。例えば部屋には照明があるものだが、夜分にはスイッチ一つで部屋の中は昼にも夜にもなり得るのである。我々の身体の触覚というものも同じように考えられるのではなかろうか。こういう風に、触覚的なものは常に視覚的なものと一つのものであって、この意味では我々の部屋というものもまた我々の身体を模して作られたものと考えられる。

*2:「気分」については、「気分一元論」参照。