雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

耳鳴りと創造的実体

耳鳴りと言えば、ある時に鳴り、別の時には鳴らないものと考えられる。当たり前である。いつも鳴っているならば、いわゆる耳鳴りなどというものはない。そういう言葉も生まれない。

しかしいわゆる耳鳴りではなくても、常に我々の耳には、あの何とも言えない音が鳴り響き続けている。あの音は一体何なのだろうか。金属音とも自然音とも言えぬ、とにかく微妙な音である。この音は、普段は特に意識されない。常に大体一定に響き続けているものというのは、空気と同じで、無いのとほとんど変わらないのである。だがそれはやはりあるのである。

突飛なようだが、我々の世界における創造、すなわち何らかの意味で新しい形が生まれることというのは、全てこういう風に考えられるのではなかろうか。元々どこにも無かった形と言っても、何らの意味においても存在しないならば、それがそれとして認識されることは不可能であろう。それは元々有ったものでなければならない。しかし元々有ったならば、創造と言うことはできない。無いということも真実でなければならない。

これを考えるには、まず無というのがいかなるものであるか、よく考えられねばならない。純粋な無というものは有るか。それは実は無いのである。なぜなら純粋な無が有るのならば、それはすでに有である。純粋な無の存在を証明しようとすることほど滑稽なことはないであろう。であれば無は純粋な無としてではなく、開き直って、ある仕方での存在としての無として理解されれば良いのではないか、という展望が得られる。実際西田幾多郎などが無と言うとき、そういう意味を含んだものである。どこまでも無限に有なるものを包んで行くのが無である。では存在する無とはいかなるものであるか。

難しく考える必要はないのである。例えば空気である。多分動物にとっては空気というものは存在しない。それが自覚化される必要はないからである。彼らはただ対象的に、輪郭のある事物を見ていれば良いのであり、それで十分生きることができるのである。空気が有となるのは、そこに輪郭が与えられるからである。この肉体によって生きられる世界そのものの外に出るから空気というものが存在するようになるのである。それが精神を自覚する存在、つまり人間であろう。我々の今の視点から見れば空気は元々有ったものとしか考えられない。しかしいかなる有も全て発見という意味を持っていなければならない。天才的な独創といえども、発見ということを離れて存在し得ない。空気も、天才の作品も、同じ「形」という枠で括ることができる。実在としての形とは作られるものであり、しかも作るものである。つまり創造者としてどこまでも元々有ったものと考えられねばならないとともに、被造物としてどこまでも時間上に偶然的に形を成したものと考えられねばならないものである。だから無というのは、有なのである。それはいかなる有なるものも本来無だからである。

耳鳴りが耳鳴りとして存在するのは、耳鳴りの於て有る無、存在する無が、そこに有ったからであろう。あの常時鳴り響く音がそれであるとも考えられる。いわゆる耳鳴りとは、常時鳴り響くその音の、一つの変調とも考えられるものではなかろうか。ある時点で特別に耳鳴りという現象が起こるのではなく、一つの持続の過程の中で起こる歪みというべきものではなかろうか。もしそれを一つの特別な形、つまり何かの変調などではなく、それ自身の形を持つものとして捉えるならば、そのアイデンティティーというのは、単に耳が「鳴る」ということの内にではなく、全く違う何らかの外在的な原因それ自体の方に求められねばならない。その外在的な何かが、この常時鳴り響く耳鳴りとぶつかった時に、いわゆる「耳鳴り」という形で現れるのであって、その「耳鳴り」の自己それ自体は実は別のところにあるのである。

以上から何がわかるか。まず耳に常時鳴り響く音というのが、我々の自己になぞらえることができよう。我々の自己は我々にとって無と言うことができる。それは存在としての無であり、自己の内に表現的に形作られて行くということを元々含んだものでなければならない。耳に常時鳴り響く音は、常にそれが耳鳴りに「なり得る」ということを含んだものでなければならない。逆に耳鳴りとして現れたものは、それが単なる偶然的な現象ではなく、元々そこにそれが有ったということでなければならない。自己の内で起こるいかなる現象も全て自己自身の表現という意味を持たねばならない。それであって初めて現象の底に存在する自己というものに形が与えられるのである。というより自己の存在が知られるのである。現象をただ現象としてのみ見るならば、自己というものが自覚されることはない。自己を自己として自覚するという事実がある、すなわち全ての現象を対象的に見る、現象それ自身とはどこまでも質的に隔たったものとして自己を発見するという事実があるということが、現象は全て自己の表現だということを意味しているのである。だからこれも常識的思考からは変に聞こえるであろうが、現象というのは全て創造的事実の意味を持っていなければならない。創造的でないと考えられることであっても、それは現在的なものである限り、例外なく創造的なものである。全ての物は、しかもそれが概念であっても、生きているのである。アニミズム的思想を唱える人にもこの点の理解が足りないと思う。いかなる抽象的観念であっても、それが生き物だからこの現実の事実として成立することが可能なのである。現実という無は、全ての背景として、いかなる死物にも命を吹き込むものでなければならない。

全ての現象が自己の表現であるとはいかなることであるか。それは全ての現象に、自己と対等の存在を認めるということである。対象は単なる対象ではなく、あくまでも現象的に存在する対象であり、その限りその対象は、いわゆる物ではなく、どこまでも人格的なものとして、我々の自己の存在そのものに対するのでなければならない。これも常識的にはやはり変に思われるであろうが、事実なのである。耳鳴りのように、常時一定のものとして、背景的無として存在するものが、「歪む」ということがあるのは、我々の自己の存在というものが元々自己自身の内に、自己の存在そのものに対する他者を含むからである。自己の内に含むということだけから考えれば、他者ということは考えられないし、逆に自己の存在そのものに対する他者ということだけから考えれば、単に他者は外に出たものとしても良いことになってしまう。しかし他者ということもこの自己における現象である。ところが単に現象的事実としてのみ他者を理解するならば、結局はそういう他者とは、他者の名に値しないもの、要するにそういう名を持った「物」だということになる。独我論というものが存在する所以である。独我論を脱するには、何度も言うように、この自己における現象そのものが、全て自己自身の存在そのものの表現という意味を持っていなければならないのである。そして同時に表現ということを離れて、その外に自己の存在を置いてはならないのである。




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まとめて言うと、自己同一は他己同一を前提することによってのみ自己同一であることが可能であり、それ以外の仕方における自己同一というものはあり得ない。我は汝を前提として我でなければならない。しかし単に我と汝との二者を考え、これだけが実在者だと考えるのでは、世界はそこで行き止まりである。現象とは言うまでもなく多様なものであり、一瞬一瞬に姿を変えるものであるし、しかもその一瞬の中に多くの現象が含まれているのである。現象というものの面白いところは、一つの現象は同時に無数の現象だとも、二つの現象だとも、あるいは別の何かの数の現象だとも言うことができることである。この辺にも今私の論じたいことの大きなヒントが含まれている。単に我と汝というだけを考えるならば、いわゆる現象というのはこれとは別に考えられる何かということになり、結局は、存在それ自身を離れた客観的世界というものを考えねばならないことになる。しかし現象はこの我に即して有るものでしかないのであり、しかも現象の一々は全て我の存在そのものに表現的に対するもの、しかも同時に表現的に我自身であるもの、我がそこに於いて自己を表現するとともに汝がそこに於いて自己を表現するものと考えられるからには、存在というものを単に我と汝だけで考えてはならないことになる。汝は現象なのだからそれはどこまでも多様なものである。現象といってもそれは汝なのだから、どこまでも一なるものである。だから常に一即多、多即一と考えられねばならないのである。それでこの概念を私は創造的実体と呼ぶことにした。これについては前の記事も参照されたい。

創造的実体というのは、他己同一を前提することによってのみ可能な自己同一という規定を持つ実体概念である。自己同一は自己同一だけからは考えられない。耳鳴りのように、ある一つの大きな波の偶然的な歪みということが考えられ、しかもそれによって一つの大きな波はあくまでも自己自身を失わない、自己自身を保つと考えられるのは、存在するものが全て創造的実体的だからだと思う。他己同一を前提する自己同一というのは、西田の矛盾的自己同一のことである。しかし矛盾的自己同一では、西田が批判したヘーゲルの対象的弁証法の構図にまだ引きずられて理解される恐れがある。あるいは煙に巻くような言い方になってしまうが、更に「他己同一即自己同一」即「矛盾的自己同一」と言うことができるであろう。私の言い方では、他己同一即自己同一なのであるが、これに更に即が付くのである。これは単なる言葉の遊びではない。即とはそういう概念なのである。つまり自己自身において無数の他者を包むのである。しかもその他者はあくまでも汝でなければならない。そしてやはりそれは彼でなければならない。彼と考えられるならば、そこにおいて我も実はすでに彼なのである。全ての彼が我即汝なるものでなければならないからこそ、全ての彼は全ての彼にとって汝となり得るのである。他己同一即自己同一と言うとき、他己同一には自己同一が含まれているということになる、他己同一は自己同一「でもある」ということになる。「他己同一即自己同一」に更に即が付くとき、「他己同一即自己同一即矛盾的自己同一」となるのだが、これは順を取り替えて「他己同一即矛盾的自己同一」と言うこともできる。この場合は、他己同一とは自己同一の意味で理解されるのであり、矛盾的自己同一は他己同一の意味で理解されるのである。こういう思考はほとんど一般に理解され難いに違いない。が、つまりその内容がいかなるものであっても、ある二つのものが即として一つの形を成すとき、必ずそこに相反する役割がその時々に設定されるのである。

例えば、常に蟻の群れの何割かは怠けていて仕事をしないのだそうだが、その怠けている蟻を全部退けて働き者だけ残したとしても、その残った中でまた同じ割合の怠け者が生じるのだという。これはそうであることによって、人間の頭では理解できないことだが、ちゃんとバランスが取れているのである。これが実在というものであり、実在そのものの根源的バランスはいかに人為的な操作が加わろうと超然と働いているのである。我々が為し得る人為的な操作は、むしろこのバランスそのものに則って、それをできるだけお気に入りの形で精錬して表現するということだけであろう。それが人間のあらゆる文化的営みなのである。創造的実体というのもこういう概念でなければならない。これは実在の根源的バランスを説明する概念である。

好きということ、嫌いということ

好きと言えば、なければならないもの、嫌いと言えば、なくても良いもの、いやない方が良いもの、と考えられる。私はこれは違うと思う。

好きというのは、なくても良いもののことである。実際にそうであろう。本当に好きならば、それに対する熱意などというのは、特に望まなくても止めどなく溢れてくるものであり、しかも熱意が沸き起こらなくなったとしても、実は何ら問題でない。その場合はただそれに対する穏やかな愛情に変わるだけなのだから。好き、愛する、この感情はそういう広い感情であり、鋭いものではない。鋭さがあっても、その鋭さはむしろ広さに抜けて行くための鋭さであり、異次元への扉であり、そういう事態は、そもそもそれまでの自己がそういうものを必要とするくらい狭っ苦しい環境に置かれていたということを意味するのである。その鋭さは愛好そのものの鋭さではない。恋愛は冷めるものとも考えられるが、冷める恋愛は始めから、狭っ苦しい環境からの脱却という意味しか持っていなかったのであろう。真の愛は、鋭さの抜けた後でも、穏やかな愛情として残っているものである。そしてその対象が目の前にあってもなくても、どちらでも構わない。そもそもそれは対象という言い方自体がふさわしくないものであり、むしろただ在ることと言うべきものであろう。それは目によって自己の前に見るものではなく、直接私のこの背中にぴったりと寄り添ったものである。存在そのものへの感謝が好きということである。

本当に好きなものは、ただその時々の必要性に応じて、過不足なく流れて来る。私はこういう文章を今書いているが、要するに本当に好きなことをやっているので、過不足なく、アイデアが連なって来るのである。求めることがそのまま与えられることとなるのである。そして私はアイデアが尽きたとしても、それに何のこだわりも持たないであろう。なぜならそれこそこの文章の結ということであり、無事書き終えたということなのだから。お金が好きという人も居る。お金が好きという人は、お金に対して何のこだわりもないからこそ、次々とお金が流れ込んで来るのである。お金はその人にとって可愛いものであり、世話したいものであるからこそ、流れ込んで来れば、流れ込んで来ただけ、その都度大事に世話してやる。つまり例えば適切にお金を使用して市場に還元するのである。その市場のお金は、また機会があれば私のところに戻って来る、そうわかっているから何の惜しみもなくお金を使うことができるのである。だからただ手元に沢山お金があれば良いと考える人は、そもそもお金に対する感謝の思い、大切に世話してやるという心がないのであり、市場のお金はもう私のところに戻って来ないと思っているから、逆にお金は遠いものとなる。お金はその人にとってなくてはならないものである。そしてできればお金なるものは元々ない方が良い、そういうものが世界に存在すること自体がその人には迷惑である。

そしてそれが、嫌いということであろう。嫌いなものは、なくてはならないものである。お金はなくてはならない。なくてはならないから、いつでも私にとっての重荷として、心を悩ませ続ける。若者達を見る。彼女や彼氏がなければならない。そう考えている時点で、彼女や彼氏のことは嫌いなのである。あるいは恋愛そのものが嫌いなのである。なくてはならないものなのだから。所有しようと必死に努力する。しかしそれに意味はあるのだろうか。もし本当に好きなものならば、それはすでにその人の元にある。所有しようとしないでも、すでに所有している。それは見かけ上は所有という形ではないかもしれない。しかし私は目を高く上げると、すでにあの雲を所有していることを理解するのである。なぜなら私は雲に感謝し、雲とこの同じ場所というものを紛れもなく共有して存在しているのだから。この時を味わっているのだから。

そして人間は単に外形だけの、肉体だけの存在ではない。思えば、いや想えばそこにその人は現れてくる。思うというのは非実在的なものに対することであり、想うというのは逆に実在するものに対するのである。思うは、それ自体が目の前にはないものに対することであり、仮に目の前にあったとしても、態度上はそこから離れて、あるいはそのものにバレないように、隠れて思考することであるが、想う時には、むしろそのものがすでに現前しているのである。だから実際に会う時にでも、その人に対して想いつつ会うのである。想いながら思うことがあるかもしれない。そして恋愛で言えばそれは駆け引きと呼ばれるもののことであろう。しかし本当に真の愛情に支えられた恋愛においては、ただ相手に対して想うことのみ可能である。その相手について何か思うとすれば、それはすでに恋愛という枠を離れて、一個人、いや単なる物として見たときのことであり、しかしそういうこと自体を恋愛という枠そのものの内に入れてしまうならば、駆け引きということになってしまう。想うということは、時間空間その他あらゆる条件を越えて、ただ存在することによって存在するということであり、しかも同時に行為の内にあるということである。存在と行為がそこでは切り離されていない。行為は存在そのものの内にある。だから想うことのできるもの、本当に好きなものは、ここになくても、時空を越えて実在するのである。ただそれが現れていないというだけである。それは現れていないが、私はすでにそれを把握している。そしてそれへ向かって行為している。思うと行うと在るとでは分離があるが、想うことはそのまま行うことになり、そしてそのまま在ることである。

嫌いというのは、行為の内にはない。ただそれ自体として嫌いなのである。その固まった姿が嫌いなのである。好きというのはこれに反して行為の内にあるのである。好きには元々定まった形がない。好きである時には、すでに夢中で行為しているのである。行為の対象は本来そういう無対象の対象でなければならない。対象の形はむしろ最後の最後に決定されるのでなければならない。あるものが好きだと思っていた。それに向かって夢中で行為していた。しかしあるところで、本当は自分はこういうものが好きなのだと気がついた。しかしそれでも彼のその好きという想いは少しも損なわれない。なぜなら元々愛好の対象は無対象の対象であり、むしろ対象の形は私が行為によって形作ることによって定まるのだから。実は好きではないと気づいたそのものに対しても、嫌いになるということではなく、むしろ今ここに現前する一面の「好き」の中に、その一部として取り込まれたに過ぎない。嫌いなものというのは、避けがたいものとして、私の意図に反して、そこにあるものであり、つまり私が生きて行くためにはそれがなければならないというものである。私を行為へと導くのではなく、牢に入れるのである。そこでの行為は、その嫌いなものの存続のための奴隷労働ということになる。嫌いなものは、存在するのではなく、ただ存続するものと言うことができるであろう。嫌いなものであっても、それが存在すると言う時には、むしろそれはすでに好きの内に理解されている。イエスが敵を愛せよというのはまさにこのことを指している。存続から存在へ、思うから想うへ、分離から統合へと導くのが愛であり、愛からの行為である。

嫌いとは、要するに実体性である。存在ではなく、存続において理解される実在である。実体というものがあくまでも実在の概念として西洋哲学の伝統において理解されて来たのは、皆が嫌いなものだからである。ある特定のものが特に嫌われる、皆に平等に嫌われるということによって、かえって世界の事物の平等を保証するのである。あらゆる嫌いを、その実体というものに押し込むのである。実体とは根源嫌悪とも言うべきものである。彼らは何かしらの嫌悪の犠牲がないと、愛好も成り立たないと思っていたのではなかろうか。サタンというものを考えずにはいられなかったのであろう。だからここに引きずられて、彼らの愛好というものも対象的なものであり、理念的と言っても、それはやはり見られたものであった。こういうことがイデアという概念にも、理念という概念にも現れている。それ自身によって在ること、それは具体的存在ではなく、ただ存在を越えて存続するものであり、この根源嫌悪こそが、全ての愛好を包むものであった。全ての愛好の目的であった。しかし全ての愛好の究極の果てが、嫌悪そのものであるとは、何と滑稽なことであろう。存在は本来どこまでも営まれるものでなければならない。営まれるものの根底にあるものも、営まれるものでなければならない。しかし色々と理屈を並べ立てても、彼らの世界観の根底に考えられるのは、営まれるもの全てを包んだ、営まれないものなのである。プラトンヘーゲルも、きっとそういう概念を望んだわけではなかろう。彼らの哲学は、すでに西洋的世界観を越えたものと言わねばならない。ただそれに対する言表が西洋的であったというに過ぎない。

好きということは、これに反してただこの現在の尖端において発見されることである。対象は対象であって対象ではない。それは実体的なものではない。かといって、単に実体的なものを否定するものでもない。実体的なものを否定することによって見られるのは現象であるが、現象という見方はそもそも実体的なものを前提しているのであり、実体性そのものをその底から乗り越えようとする見方ではない。真に好きということの前に現れる現象は、それ自身現象とも実体とも呼べないものであり、それは要するにただ存在するとしか呼ぶことのできないものである。そしてそれはいつも新しく、その都度ごとに姿を変えて現れるのである。嫌いなものは、その好きの中にそのまま包まれて無力化される。嫌いなものを無視するのではなく、嫌いなものが、そのものであるままに好きなものとなるのである。もとより好きとは無対象の対象に対するものであるのだから。あるものが好きであるとは、同時に他の全てのものが好きであるということを意味するのである。



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好きというのは、なくてはならないものに対してのものだ、というのが常識的理解である。これはいかなる意味において考えられるのであろうか。無論ここにいかなる真実性もないならば、始めから常識的理解として成立することもあり得ない。

私は今ここに、なくてはならないということが嫌いというこのなのだ、と規定した。こうしてみると、好きということ自体がそれ自身の内に嫌いを包んでいる、嫌いに即して嫌いを越えたものが好きということだ、という言い方ができる。好きに関する常識的規定は、こんな逆説的な意味を帯びて来ることになるのである。

なくてはならないものが、つまり嫌いなものこそが、好きということのきっかけになるのであって、逆にそういうものがなければ好きということもあり得ないのである。嫌いなものを体験し尽くしてこそ、我々は好きなものを発見することができる。好きだと思っていたものも、また嫌いになることがあるが、それは好きということ自体が元々無対象の対象へと向けられていたものだからである。

常識的思考の範囲では、あまり好きということは突き詰めて考えられない。理由はわからないが、あるものがとにかく好きである、そこから考える。そのあるものが好きであるということの内にこういう論理が含まれているとは考えられない。好きなものがあるのも当たり前、嫌いなものがあるのも当たり前、その両者が互いに関わり合うことによってのみ好きとか嫌いということが存在することまでは考えられない。

嫌いなものはない方が良いものだ、常識的にはこう考えられる。確かにその通りである。しかしそれそのものを取っ払っても、その嫌いなものが存在している根本的な理由が把握されていなければ、嫌いなものは対象を替えてそっくりそのまま体験されることになってしまう。男に縁のない女、などと言う、まさにそれである。どんなに嫌いと思っても、それが現在の自分自身の主体的体験の現実にとって必要なものだから、つまりなくてはならないものだから、現れて来ているのである。嫌いなものと好きなものとが両方あるというならば、その人が好きだと思っているものも実は本当の意味で好きなわけではないのであり、嫌いなものも実は好きなものなのである。酒が好きだと、自他共に認める人がある。しかし彼は上司が嫌いなのである。上司が嫌いだから酒が好きであるのだから、酒が本当に好きなのではない、そしてそれでも酒が好きというのなら、その嫌いという上司が好きなのである。酒という好きなものを体験させてくれる、嫌いな上司が好きなのである。

ここで好きとか嫌いといったことは、対象を越えたところから理解されねばならないということがわかってくる。本当の意味で嫌いとは要するに現実そのものの停滞のことである。酒が好きというのも、その時だけはギャーギャー騒いだり前後不覚になったりして、停滞を逃れられるように思うからであるが、そういう酒を飲むということが習慣化してしまっているならば、結局はその酒を飲むということも停滞である。停滞とは行為を否定するものである。行為を行為であって行為でなくするものであり、その人を牢に入れるものである。こういう状況でいかに自由というものが考えられたとしても、自由ではない、本質的には奴隷労働である。

本当の好きには、いつでも創造がある。その都度ごとの新しい照らし出しがある。親からは、子供がいつも同じようにゲームをやっているようにしか見えない。しかしその同じことを、なぜずっと夢中でやり続けていられるか、そういうことを考えることはない。その子供自身の視点から見ると、そこにはいつも新しい発見があるのである。一度クリアしただけでは満足が行かない、もう一度プレイする。同じことを繰り返すのではなく、やはりそこに新しい発見があるのである。単なる繰り返しというのを、人間は夢中でやり続けられるはずがない。嫌いなもの、なければ良いもの、とは対象ではなく、むしろ主体的体験の現実の停滞そのもののことである。その現実の中で、特にその停滞性を象徴するものとしてその嫌いなものが現実に現れて来るということに過ぎない。その現実にある他のものも、結局はその嫌いということに色付けられたものである。しかし同時に現実はいつでも、創造へと開かれている。どんなに停滞的な現実であっても、必ず創造への扉がある。それが彼には酒として現れる。その酒を単に嫌いなものから逃げるためのものとして見るか、ただそれ自身のために愛好するか、ここに停滞と創造とを分ける何かがある。

それ自身のために求められるということは、実は無対象の対象へと向かっているということである。ここにおいては我々の主体的全体がその対象の中に含まれているのであるから。イデアもイデーも本来ここに存在するものである。ある対象に即して対象性そのものをどこまでも越えたものが志向されている。それが想うということでもある。では志向されたものは何であるか。つまりそれは無対象の対象なのである。無対象の対象などという哲学くさい表現を使うと、すぐにそれが実体化して理解される。無対象の対象なる対象があるわけではないのである。今言ったように、それは主体である我そのものがそこに含まれるということである。対象は創造されるものである。創造的ということを始めから伴って見られる対象こそが真に現実的対象なのである。普通に認識論において対象などと言えば、ある知的なものが考えられる。しかし対象は実際には、我々の主体的現実における対象であり、常に行為的に見られたものでなければならない。だから対象は全て実在として見られる対象であり、創造的なものと考えられねばならない。

対象は停滞であり、行為は創造である。しかし停滞と創造とは常にこの現実そのものに重なって同時存在しているのである。その停滞の方に自己を位置づけるか、創造の方に自己に位置づけるか、これが結局は嫌いと好きということである。ある対象を停滞において見ることもできる。しかしそれも実はそういうものとしての創造的現実と考えることもできるのである。停滞そのものを主体的に選択するならば、それもまた好きの内に入る嫌いなのである。行為は元々自己否定によって自己肯定するものであるが故に、その自己肯定の面を強く意志するか、自己否定の面を強く意志するかということ自体を主体的に決めることができる。停滞より創造の方が良いに決まっている。しかし停滞を離れた創造はないのである。

主体的に停滞を選択するとき、それはひたすら限定された枠の中で、学びを続けるということを意味する。そしてそれはその限定された枠の範囲内でどこまでも深まって行く。停滞といえども創造を離れることはできないのだから、停滞の枠の中で創造がどこまでもぐるぐると廻転し続けるのである。そしてそれが実はあらゆる文化的営みである。例えば哲学という学問がある。そういう極めて限定された枠の中で、限定された概念や論理の仕組みを活用しながら、あくまでも新しい照らし出しを積み重ねて行くのである。その極、嫌悪は単なる対象的嫌悪を越え、根源嫌悪へと深まって行く。停滞は停滞自身の根底を自覚して行くのである。停滞が停滞自身の内から停滞を越えるとは、すでにそれは停滞ではなく創造であるということである。





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思考や文章が停滞して来た。なぜだろう。これは色々と書き出したことによって、この文章そのものの固定した様式が出来てきたからであろう。何が核心なのかわからなくなってくるということも、停滞の特徴であろう。だから本当は好きでないものを好きと思ったりするのである。本質に戻って考えをまとめておこう。

要するに私が言いたいのは、何度も言ったように、好きということは、対象そのものが創造的なものとして見られるということであり、嫌いとは対象が単に対象として見られることだということである。そしてそれはつまり、好き嫌いは、我々の主体的態度の問題であるということである。本当に好きに突き抜けて生きているならば、嫌いなものは嫌いなものであって嫌いなものではなくなる。それはそれとして尊重し、好きの内に見ることができる。単に我々自身が今持っている実体的性質と、この時点ではそぐわないだけだと、相対的に見ることができ、そして棲み分けることができる。相手をどうこうしようなどと思わない。

好きに突き抜けて生きる場合は、本当に好きなものが現れて来る割合が多くなる。今の自己の実体的性質によく合致するものが、多く現れてくることになる。なくてはならないのは対象ではなく、存在である。存在とは私と対象とが行為の中に一如となるということである。私から対象へは直ちに対象から私へということである。対象もそこでは私に対等の主体として見られたものであり、応答し合うものとして見られているのである。だからその関係は創造的な関係だということになる。

何々が好きだということは、それがなくても良いということであり、もっと言えばなくてもあるものだ、ということである。嫌いというのは、それがなければならないということであり、もっと言えばあってもすでにないということである。真にあるというのは、行為において、創造において存在するということなのだから。常識的に、「好き」がなくてはならないものに対するものと考えられるのは、これはむしろ創造という主体的態度に関して言われたものであり、「嫌い」がない方が良い、なくても良いものに対すると考えられるのは、同様に停滞という主体的態度に関して言われたものであろう。主体にとっては創造はなくてはならないもの、停滞はあってはならないものである。主体にとっては、創造的に見ることのできる対象が是非あって欲しいのであるが、それは実は対象それ自身の性質に依るものではなく、むしろ主体の根底的態度自身の問題である。主体はいかなる対象も創造的に見ることができる。なぜなら対象はカントも言うように、認識主観のアプリオリに持つ形式によって限定されることによって認識主観に現れるのだから。わかりやく言えば、主体の内的許しによって存在するのが対象である。しかしアプリオリな形式とは単に知的なものではない。それは主体が自覚的に変えることができるものであり、それこそが「態度」というものなのである。態度によって、対象の現れ方そのものが変わる。それは対象が元々主体として、存在するものだからである。対象は物ではない。対象が物だと言うならば、そういう主体的態度が対象を物にしているのである。塵に語りかけてみよ。それは主体として、我々の態度次第で、全く対等にこの私に応答して来るであろう。そして対象の主体性への尊敬こそが、好きということなのである。