雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

宇宙が宇宙の記憶を辿るとき

ある時宇宙は、終わりの時を迎えた。寿命が来たらしい。生まれ、育ち、働きまくり、老い、そして今、最期のときなのである。


宇宙は、その大いなる創まりから大いなる終わりの時まで、万物の生成化育を司り、とてもとても大きな仕事を成し遂げた。思い出せば言葉には到底尽くせぬ、色んなことがあった。そもそも言葉なるものも、この宇宙の中の一つの事象に過ぎないのだから。この大仕事の終局で、これまでの過程が無性に懐かしくなってきた。それもそのはず、そこには大宇宙の全体、空間と時間の全体、思い出の全体が詰まっているのだから。


そこで、宇宙は、来し方を一々思い出してみることにした。あんなことも、こんなこともあった。あれは良かったが、これは結局未解決のまま終わってしまった。大宇宙様たる私も、やはり、一箇の存在である。まだ活躍中の同僚の別の宇宙にも少し顔向けできないような気持ちになる。


未解決に終わってしまった思い出。後悔の念が湧き出る。今思えば、これはああすれば良かったんじゃないかな、と思ったりする。しかし、なぜ、こんなことになってしまったのだろう?とても気になるから、それにまつわる記憶を詳細に辿って見ることにした。


そこには色々の脈絡が複雑に絡み合っていることが見て取れる。なるほど、これが人間というものだった。感情というものが豊かだから、色々と厄介なことが多いのだ。困ったものだ。いやしかし、この私から見ればこれをこんな風にしてやれば、これは全く上手くいったはずだ。ぬう。


やはり「私」の宇宙での事なのだから、上手くいかなかったことがあるのは、悔しい。


色々思い出してみると、特に悔しい一連の出来事があった。なんだかその人の人生の記憶を一々辿ってみないと、気がすまない。なんでこうなったのか!それで、思い切って、宇宙は、その人の誕生から死まで、全ての記憶を見てみることにした。いや、記憶そのものの中に入り込むことにした。いや、その人の感覚、感情、思考、意志、あらゆるものを内面から感じてみようと思った。どうせ記憶なのだから、良からぬ記憶は、大宇宙様たるこの私の卓越した想像力によって、作り変えることができる。ゲームがてらこの記憶、ビジョンを楽しめば良い。そうだそうだ、大宇宙様たる私は、かつてテレビゲームなるものを発明させてやったのであった。ちょうどそんな具合にやってみれば面白そうではないか。


同僚の彼も、私が何だか面白そうなことをやり出すと聞いて、賛同してくれた。あまり過去を回顧して後悔してばかりいる私を見て少し心配していたのだが、これを聞いて彼も安心した。彼も知恵を貸してくれるらしい。いや、私のイメージゲームに入ってきてくれるらしい。どうも私の親友の設定で行くと言う。



私は、気が付いたら地球で、一人の赤ん坊として生まれていた。これからどんな人生が待っているか、そんなことなど当然わからない。まだ何も知らない赤ん坊なのだから。


大宇宙様は、人間の内側に入り込めば大宇宙としての記憶そのものを一旦忘れてしまうということ自体を忘れていた。同僚の彼も、同じことになっていた。


記憶に入ったつもりが、イメージゲームをするつもりが、これではただの人間ではないか!しかしそんな事情すら、私も同僚の彼ももはや思い出すことなどできない。二人はただ人間として、人生を送ることになるのだ。


そして成長して、多少物を覚え、色々の経験を積み、失敗したり、成功したり、「こんなはずじゃなかった」とか、「まさかこんなに素晴らしい人生になるとは」とか、日々色々のことを思いながら、ある時こんなつまらない文章を書いたりしてみるのだ。





ブロッコリーと物理学的原子

晩飯に出てきたブロッコリーを見て気づいたことがある。ブロッコリーがどういう形になっているか、よく見てみると良い。


これは木などもそうなっているのだが、まず太い幹的な部分があって、そこから枝的なものが順々に分かれて行って、木で言えば葉っぱのようなフサフサした部分に到達するのだが、これがブロッコリーでは、何だかよくわからないツブツブなのである。


幹から枝分かれていって、粒へ。これを眺めていたら、ふと閃いた。いかに独立にあるように見える粒子的なものも、実はよくよく検討すれば、全てこういう具合に何か大きな幹的なところに行き着くのではあるまいか、と。実際人間ほど、個人と個人とが別個のものとして意識されるような存在であっても、個人的であるほどかえって宗教的となるのであり、どこまでも神を求めるという傾向がある、というのは不思議なことではないか。この辺に何か大きなヒントがあるに違いない。


我々の世界は一面どこまでも物理学的なものと考えられている。量子論などになるとまた違う話になってくるが、かつては、どこまでも微小へと行く方向の極限に、どんなに組み合わせが変わってもそれ自身は一定不変の最小単位である「原子」というものがある、と考えられた。そして色々な種類の「原子」が発見されていった。しかし時代が進み、更にその奥に素粒子というものがある、ということになったのだが、そもそも素粒子であっても、こういう意味での最小単位としての粒子という意義を持つものなのだから、それもまた理念的には「原子」なのである。それで私は今、この理念的な原子、ということを問題しているわけである。例えば、素粒子より更に小さい単位が見つかったならば、それがまた理念的な意味で「原子」である、ということになる。


しかしどうもこういう最小粒子的な考え方自体に限界があるらしく、私は物理学のことなど全然よくわからないが、実際にはどこまでも微小である方向へと深く深く潜って行くとき、どうしても粒子が波であり、波が粒子である、こういう相反する両方の性質を持ったものに行き当たらねばならない、ということになるのだと思う(違うかもしれない)。例えば光の性質などといったものである。


さて、そういう物理学的世界観そのものに見られる矛盾的性質は、そもそも世界が絶対矛盾的自己同一的に主体が環境を、環境が主体を作ることによって、形から形へと無限に創造的に形成されて行くものである、というところから来るのだ、こういう立場から説明したのが西田幾多郎の「知識の客観性について」という論文である(無論この論文はそれだけのものではないが)。ここでも量子論ということについて触れられている。今この論文の中には入って行かない。ただ要するに、私のここで問題とする「原子」なるものも、結局はこういう世界そのものの本質的な主体性というところから考えねば、理解できないであろうということ言いたいのである。


さて原子的なものについて少し考えてみよう。ヒントはさっきのブロッコリーのたとえである。


原子的なものというのも、結局は現に行為的に見られたものであり、そこを離れない。行為的に見られるということ抜きに、それ自身としてあるように考えるのは独断である。我々「見るもの」もまたその存在の根底を探って行くと結局それは世界そのものである。世界の外に我々の存在を考えることはできない。じつに当たり前過ぎる事実である。問題は、その世界の中にあるものが、なぜ世界の中にあるものを見ることが、つまり世界の中にあるものの「外」に立って超越的な立場を保つことが可能なのか、ということだ。単に唯物論的に考えれば、我々の「見る」という働きも実は見かけのものであり、実際にはそこには物理学的な法則に従った、物質と物質との離合集散があるのみである、と説明されるであろう。だが、我々の「見る」ということを「見かけ」だとしてすでに「見て」いるのである。物理学的な法則なるものも、まず「見る」ということが先にあって、その見るということそれ自身の内に深まって行った結果、物理学的法則として「見られた」、ある一定不変と「見られる」法則的関係に過ぎないのである。見るということそのものを否定することはできない。見ることを否定すること自体が、そういう意味で一つの「見る」ということになるからである。


世界の内にあるものが、世界の内にあるものを「見る」。これが成立するには、世界というものが、世界自身の内に、質的な差異を持ち、この質的な差異自体をまた量的に引き戻して、これによって世界自身が自己形成する、こういう論理が考えられねばならない。が、ここではそういう論理にまつわるややこしい話がしたいのではない。もっと、あのブロッコリーの形のように直観的にわかりやすいものに、重大なヒントが隠されているのである。見るものと、見られるもの、物理学的原子の話で言えば、観察者と、観察される原子、こういう差異は、全く内と外の関係、内在と超越の関係、つまり互いに質的に断絶した関係と考えられる。しかしそれは、この同一の世界の内においての話なのである。内と外、という事態そのものが「内」である、というのが世界そのものの立場である。見るものと見られるものとは、全く大と小、外と内でありながら、実は根のところで「一つつながり」になっているのである。なるほど、そうやって考えれば、確かに、植物が成長するのであってもそういう構図が容易に見て取れることに気付く。木でいうならば、根と葉とは、互いに呼応し合い、全体にエネルギーが循環する、という関係になっている。根は養分を吸い、葉では光合成によって栄養分を作る、エネルギーのやり取りがされ、根から葉へ、葉から根へ、と常に応答し合っているのである。葉から見れば、根は自分自身の一部であり、逆に根から見ても葉は自分自身の一部である。なぜなら、「自分自身」とは、その「木」全体、という一つの生命、身体なのだから。


観察される原子と、観察者とも、結局裏側ではこういう風に一つつながりになっているのであり、互いに呼応する関係となっているのだろう。呼応する関係は我と汝である。我が汝を見るということを離れて見るということもあり得ない。単に物質的対象を一方的に見るということはあり得ない。我がAを見れば、Aはまた我を見るのでなければならない。我はAの内にあり、Aは我の内にあり、しかもそれは第三者的な形そのものにおいてある、ということである。つまり私と原子とは、この「観察」という形において、一つの生命であり、原子は私の一部、私は原子の一部という関係になっているはずで、それは原子の自己も、私の自己も、この「形」において在るものだからである。


またややこしい話が出てきてしまった。とにかく、原子というものも、ブロッコリーのように、その奥を見てみれば、枝から出た粒なのであり、枝はその更に奥の枝から出たものであり、更に進めば幹に行き着くのであろう。そして更に進んでいけば、直接土と触れる根っこに行き着く。末端の根と末端の葉とは、ともに末端の関係として、お互いに呼応し合う二極となる。男が女に生き、女が男に生きるように、根は葉に生、葉は根に生きるのであろう。大きな一つの形、生命を為すものは、かえって、こういう風に、末端の両極がお互いの内に呼応し合うことによって成り立つのである。この両極は文字通り対極的な存在であり、片方が欠ければもう片方の存在もないことになる。なぜならば、一つの「生命」において、両極は自己自身を持つのだから。


一つの生命は、なるほど外から見れば、一見、ただある一つの方向へ伸びて行く、ある単一なもののようである。植物は根から太陽へと一心に伸びて行くのである。しかし一つの生命が一つの生命として、大きく真っ直ぐ、一つの方向へ伸びようとすればするほど、彼は自己自身を振り返る必要がある。葉は根を省み、根は葉を支え、互いが互いを必要とし、エネルギーを循環させることによって、大きな全体の一つの生命はかえって一つの方向に伸び続けることが可能なのである。大きな生命の進む一つの方向は、こうして、実は向かい合う両極の相互循環の方向を、第三者的に綜合する方向となっている。一は三なのである。一は二となり、二が一となるから、そこに三が出て来るのである。


粒が粒となり、末端的となればなるほど、それはかえって、根っこへの強い憧れを生み出す。我々が原子を原子と見て、これをどこまでも末端なものとして捉えるのは、実はそれ自体、原子が我々に「求めてきた」ことなのである。我々はこれに気づかず、ただ世界が形から形へと無限に発展して行く営みの中で、大きな生命の中で、知らず知らずその自己形成に寄与する行為をしてしまっていたのである。末端と根っことが強く応答し合えばし合うほど、生命そのものは強く輝かしく生長して行くのである。


量子論におけるように、粒子が波、波が粒子であることの自覚は、こういう論理そのものの自覚として考えられないであろうか。単に葉っぱは葉っぱとして、根っこは根っことしてあり、両者が応答し、第三者的に大きな生命に包摂される、というだけではなく、そのこと自体が、応答する両極の内に自覚されているのである。両極がともに第三者的な意義を持つ、こういう事態になったとき、第三者と第三者との呼応の関係は、単に二ではなくすでに四であり、第三者と第三者とを更に綜合する大生命はもはや第五者と言わねばならない。


思うに、これからの時代は、人々はこの第五者に生きることになるのであろう。それは人々が、創造的世界の創造的要素として、末端的なものでありながら、第三者そのものにおいて自己自身を自覚に持つことによって、第五者の方向へ己の生命を弥栄させて行くのであろう。部分は全体であり、全体は部分である、と真に言うことのできる時代である。


それはともかく、ブロッコリーなどのような植物、あるいは自然界にある様々な事物は、それ自身が深い真理を含んでいるのであるから、我々は日常よくこれらのものに注意し、耳を澄ます必要があるであろう。



自分自身に教えられる

こうやって、何か文章を書くことによって、自分自身に教えられるということがある。だから、自分の書いたものを、よく読み直す。必死に考え、必死に書いたものほどそうである。無論私個人のつまらない人間的意識が色々に混入していることが多いであろうが、必死に書いたものであるほど、そういう人間的雑音の中に、明らかに自分自身を越えたものの力を感じるのである。襟を正すような心持ちになる。


単に文章を書く、といったことにも、実際のところは何か「他者」の力が働いているに違いないのである。ただ一人で居て、一人で考え、一人で書くように思われても、しかし文章を書くというプロセスは、文字通り対話的なものである。いや、対話「的」ではなく真に「対話」なのだ。


哲学的にはそこに色々ご高尚そうな理屈を考えたり、神秘のヴェールをかけたりと、それらしく説明することができるであろう。私が私自身に他者である、と言えばなんだかそれらしく聞こえるのであるから。しかしその内実の論理は何であるか。私が私自身に他者であるということと、いわゆる他人というものが私にとって他者である、ということ、これに違いはあるのか、それとも本質的には同じことなのか、そういうところまで、おそらく一般に哲学の議論では深くは考えられてはいないのではないかと思う。


哲学では色々とややこしく、派手な議論が展開され、あたかも深い真理に入って行っているかの相貌を呈するのだが、しかし、どんなに素晴らしそうな議論、学説でも、最終的には結局社会的常識レベルの枠組みでの結論に至るということが多くある。大学の哲学科なる場所においても、学部学生などにも、真に深い哲学的結論に至ることではなく、逆に常識的そのものの結論を出すように仕向けているであろう。また己がいかに深い哲理に入っているか、そういう御境地を見せびらかそうとしている人でも、やはり心の底にある小心さというものは隠せないものであり、どこかぶっ飛びきれないものが残り、その非常識的、超常識的な「哲理」に、常識的言い訳を施さざるを得ない。


それもそのはず、哲学は、変なことを言う学問ではなく、常識からより深い常識へと入って行くものなのだから。我々が現実そのものを顧みて、本当にスッと腑に落ちるものがなければ、いかに深い哲理といっても、それは空理空論、空中楼閣といったものに過ぎない。


それで、私は始めに言ったように、こうやって一人で文章を書くということも、実は本当に一人なのではなく、文字通り「他者」がそこに実在している、という風に考えるのであるが、それも何かひねくれた深い哲理らしきものとしてそう主張したいわけではなく、本当にただ現実的な事実として、普段覆い隠されていても本当は常にそこにあるものとして、主張してみたいのである(これがさっき言った「常識的言い訳」である)。


文章を書けば、その書いたものに教えられる。書いた者は自分である。しかし実際に、私は単なる自問自答的なものではなく、本当に文字通り教えられながら書き続けるのである。そして私の意思を越えて文字が走り出す。私自身の単なる一個人的意見というものを越えた新見解がそこに現れて来る。我々の現実にそういうことが当たり前にあり過ぎて、これをおかしいとも思わないのであるが、ちょっと考えてみればこれは実に不思議なことであることがわかるであろう。普通に人と会話するというとき、そこで自分一個の見解からは想像もできない新しい見解が得られることは普通であり、会話はその全体を自分自身でコントロールできないからこそ会話なのである。


しかしこうやって文章を書きながら考えれば、明らかに、そういう他人と会話をするのと、同じ現象が起こる。私自身も、私自身の書いているものをコントロールできない。文章は自ずから走り出し、あるいは逆に思う通りに書き進まない。私はただ己の魂の内に感じる高揚に身を任せるのみである。なぜなのだろうか。


哲学においても、おそらく、自分が自分と対話する、ということはよく言われるであろう。そして我々もそれをもっともらしい真理の託宣として有難く仰がせてもらっているのであるが、くどいようだが、ここでは現実的に、自分が自分と対話する、そこに居る自分が文字通り「実在的他者」なのか、ということを問題にしているのである。聖壇から食卓に引き下ろして、現実的に、この問題を食べてみたい。







まず私の「身体」として認識しているこの形。これは何なのだろうか。それは例えば私が他人と呼ばれる存在と関わるとき、使用されるものである。必ずそうである。LINEで会話するのであっても、絶対にこの身体を使用するのであり、しかもスマホ自体もこの身体と同じ環境世界の中にある一種の身体的なものと言うことができるであろう。重要なのは、身体というものが、他ならぬ私自身のもの、私自身の存在そのものを担ったものであると考えられながら、それが私自身の意思をどこまでも越えたある客観的な場所においてあるものであり、本質的に私自身の意思を越えて働き得るということである。


その客観的な場所は、いかなる人にとっても、いかなる主観にとっても、いかなる意思にとっても、完全に超越的なものを持っている。それ自身の形を持っている。私の身体がバラバラになって、化学的レベルに分解され切ったとしても、この客観的世界そのものはビクともしない、そういうものとして始めから我々自身によっても理解されている。私の身体というものは、こういう超越的な客観的世界においてあると始めから理解されているからこそ、私自身の身体そのものが、ある他者であり、私自身の思い通りにならないものと考えられるのである。こういう了解の元に立ってはじめて我々は自己のこの身体を自己の身体として使用することができるのである。違う言い方をすれば、身体は始めから、やがて分解されるものである、死ぬものである、こういう了解を「通過儀礼」として、私はこの身体を、自己の精神の道具として使わせてもらうことができるようになり、それによって「人間」として生きることができるのである。


では私自身、つまり客観的世界に左右されない本当の私自身とはどこにあるのだろうか。それは私の、言ってみれば純粋に観念的な空間なのであろうか。私がしばしば誰にも見られまいと思ってスケベな妄想などをしている、この「私だけ」の思念空間なのだろうか。しかしそうであるとすれば、思念の現実性というものはどこに求めることができるのであろうか。もし思念空間が純粋に個人的なものなのであれば、それが、客観的世界にある自己自身の身体と結び付いて、何か現実的な働きを為すということすら不可能である。例えば、駅に行こうと思う。支度する。外を歩く。駅に着く。こういうことも、私の思念空間が単に個人的であり他と切り離されたものに過ぎないのならば不可能なことである。無論思念空間と身体とが別々にあって、それがよくわかんが何か一定の仕方で関係しているのだ!と理屈を付けることができる。しかし私の思念空間と私の身体とは本当に、絶対に別々にあるのであろうか。しかしそれらが別々のものと考えられるのも、それらがひとまとめに一つの場所にあって、その一つの場所の中で、それらは別個のものだ、と認識されているからこそなのである。そして私はその別個のものである身体と、思念空間とを、同じ一つの大きな「私」を構成するものとして、すでに一つに見ているのであり、そう現に考えている私そのものがすでにその大きな一つの場所を自己自身の内に持っていると言われねばならぬであろう。もし私が今こうやって考察していることを、ただ私自身の純粋な思念空間において考えているに過ぎないとすれば、では、今ここに現に考えながら文章を「客観的世界」に書き出しているその身体的私とは何なのであるか。そもそも私の思索と、この文章の記述とは別にあるのではなく、一体となった、一つの循環として、ともに私自身の営みの中の一部分として働いているのである。これを書くということと、考えるということは別にあるのではない、現実の営みとしてはそれらはここからここまでと区別できない。こうやって書き出さねばそもそもここまで思考そのものが発展することもなかったであろうに。しかもこれを書き、考える「私そのもの」は、明らかに、思索空間をも、あるいは書き出す身体、書き出される画面をも包んで越えた、一つの「何ものか」なのである。


主観的領域と客観的領域とは別にあるのではない。しかもそれは別のものと考えられねばならない。単に主客合一などといって、一つのものと考えられるならば、それは独我論に過ぎない。ところが現実に、私の身体そのものが思い通りにならない、多数の超越的他者の内の一つと考えられねばならない。しかも思念空間なるものも、この身体と循環を為す、ある一つの高次の身体的なものとして、それもまたこの客観的世界においてある何かしらでなければならない。今これを読むあなたは、エロい妄想をしているかもしれないが、それとても、ある一つの客観的事実なのであり、一見わからなくても、この客観的世界において漏れなく垂れ流されているのである(いや、「漏れなく漏れている」のか)。少しは恥じるが良い。それはともかく、「私自体」というものを考えるならば、そういう超越的他者(私の身体と思念空間がそこにある場)に対して更に超越的に立つ何かしらと考えられねばならないだろう。そしてこの超越的な立場から、私の身体と私の思念空間とを、一つの営みとして媒介しているのである。


この超越的「私」において、客観的世界が内在化されると考えるから独我論になるのであるが、独我論は、何か理論的仮定といったものに過ぎないのであって、それが我々の現実的、常識的実感に全くそぐわないのは事実である。いくら独我論を主張してみたところで、我々が例えばある人に対して「嫌なヤツだな」とか「良いヤツだな」とか、世間様に恥ずかしいとか、そういう気持ちが日常の色んな局面で「自ずから湧き出てくる」ということ、これを否定することはできない。そもそも私のこの身体自体が、超越的他者なのである。


私自身が私自身にとってすでに他者である、ということはもう確実に事実であるということは言えるだろう。ただそうと言ったのみでは、まだ不明瞭であり、なんだかわかったような、わからないような話にしかならない。私が他者である。それはよろしい。しかし、他者といって、普通に想起されるのは、いわゆる他人であったり、あるいは宗教的な神であったり、あるいは家のペットかもしれない、あるいは何か手に取る物といったもの、更には物理学的原子といったものもそれが対象的に眺められる限り「他者」と言うこともできるであろう。今こういう「他者」の面々に、他ならぬ非他者すなわち「私」が加わってしまったのである。他者と私との関係は普通に超越的関係と考えられる。超越的関係と言えば抽象的でわかりにくいが、要するに互いが互いを越えた、独立のものであるという関係である。これと逆の内在的関係とはどちらか一方が他方を本質的には包んでいたり、あるいは両方がある大きな目的的第三者の中の部分であったりして、ともかく何らかの意味で連続的なものであり一つのものであるという関係である。今、私が、私自身に対して、こういう超越的関係に立ってしまったのである。


こういう関係される私の方ではなく、それに真に超越的に立つ「私自体」というものはいかなるものと考えねばならないであろうか。本当にそれがただ超越的なものに過ぎないなら、「私自体」なるものは、もはや私自身と没交渉のものと考えねばならない。ただ超越的である、というものは、何らかの関係というものすら持つことはできない、他の存在と没交渉なものである、それは西田幾多郎が『善の研究』(の多分第四篇)においてすでに超越的絶対神の観念を批判して論じている通りにである


従ってまず論理的に、形式的に規定するならば(つまり抽象的に考え、現実のイメージを考えないならば)、こういう超越的「私自体」は、関係される私の内に、つまり私の身体とか思念がそこおいてある、超越的客観的世界というものの中にある、と言わねばならないであろう。これも西田がよく言うように、超越的なものが内在的であり、内在的なものが超越的である、ということである。内在的なものの極みとして超越的なものが考えられるのである。


では論理的、形式的には、「超越的なものが内在的であり、内在的なものが超越的である」としても、その具体的現実における相は実際どんなものなのだろうか。だいたい超越的なものが内在的であり、内在的なものが超越的である、ということ自体それは、矛盾なのである。論理的には矛盾であるものが、現実においては真である、そういうことが「論理」の枠組みの内で考えられるということ自体が鍵なのである。それは論理そのものの創造的刷新の意義を持たねばならないであろう。つまりここに「創造的」ということがやはり関わって来なければならない。私自身は、何かどこか遠いところにドカと坐っているものではなく、常に働きの内にあるのである。


「私自体」は、全てを包んで越えたある何ものか、であるのだが、「全てを包んで」己の身体と思念空間とを一つの循環として見ることができると言うことができる時点で、私自体はある内在的なものであり、またこの循環的な全体の関係そのものも内在的な関係と言わねばならないであろう。つまり私自体なるものは、どこまでも超越的なものでありながら、私の身体に内在するものである、ということになる。それで思念空間もまた私の身体に内在的に考えられねばならない。というより、思念空間もまた一つの形を持ったものとして考えられねばならない。私のいわゆる身体と、思念空間とを包んだその全体が一つの私の身体と考えられねばならない。そしてこういう意味での身体に、超越的な私自体が内在するのである。私の身体はすでに超越即内在として、自己矛盾的存在なのである。翻って考えれば、一つの身体というもの自体がすでに自己矛盾的に、超越的な私自体を内に含むものなのだという存在論的規定から、「いわゆる身体」と「いわゆる思念空間」との別が、始めから一つの「私」の中に前提されるのである。そして超越的私自体が内在的ということから、私という存在はどこまでも創造的に、常に形を変え続ける存在だということが、これまた存在論的規定として言われねばならない。


また抽象的過ぎる話だが、これは我々の現実の事実を振り返っても、全くその通りだと言えるであろう。難しいことではない。現実は作り、作られるものであり、現実の世界は形の世界なのである。そしてこの世界において在る我々の自己は、日々変わり続けるものであり、それも単に様態Aから様態Bに意味もなく変わるのではなく、その変化は倫理的には「人生の学び」と呼ばれるべきものであり、日常は一歩、また一歩と進歩して行くものであり、ここにおいては退歩や堕落もまた、絶えざる進歩の中の一つの糧となるのである。そして我々の絶えざる進歩の中には、どうしても他者、つまり私に対して超越的に立ち、私自身がコントロールできないものだが、しかし私に対して何か「新しいこと」を教え、私の存在を今まで思ってもみなかった角度から照らし出すものの存在が必要なのである。他者とはいわゆる他人である必要はない。超越的意義を持ち、そして同時にそれが、私が新たに内に取り込み得るものとして、私自身を照らし出すという意義を持っていれば、それは「他者」と言わねばならない。それも単に意味において意義においての他者ではなく、文字通りの「実在的」他者、存在論的他者でなければならない。それがたとえいわゆる私自身であったとしても、例えば、私自身が必死に書くこの文章のようなものであったとしても。


さて私自体というものが、実はどこまでも超越的なものとして、私自身でありながらすでに他者でなければならない、そういうことまでは以上から確実に論理的に明かされたとしよう。ところが、いかに、私自身が私自身を照らす、私の文章に私自身が教えられる、ということであったとしても、やはりそれが単に私自身と考えられる以上は、いくら論理的に、また現実的な現象として、「私は他者なのだ」という風に規定しても、まだ何かしっくり来ないものが残る。大体書いた文章が私を新たに教えるとしても、私と文章とは、それ自身人格と物との関係に過ぎず、質的に異なるものである。所詮神と石とは会話はできないのと同じである。私はこの異質であるものが同一の場所にあり、量的関係にある、ということは創造的関係において理解されねばならないということを論じた(「異質性と同一性について」参照)。それは純粋に行為的尖端的な局面において見られるものであり、この局面においては、確かに異質なるものが、例えば私の人格と、私の書いた文章とが、創造的に矛盾的自己同一の関係にある、ということは事実なのである。しかし一旦そういう局面を離れて、単純に私の人格と、私の文章とは別ものであり異質なものだ、と冷静に見る観点もまた現実に同時に存在するのであり、しかもこういう観点そのものを保った上で、更にやはり「私は私の文章に教えられる」ということを事実と言うためには、また別のぶっとんだ説明が、そこに必要なのである。そして、私が今ここに論じている他者の問題とは、単に行為的尖端的な、主体が現在の尖端に埋もれる創造的行為の問題としてではなく、偏時間的な存在論的な問題として扱っているのであるから、存在即行為と言ってみたとしても、やはり存在論的な観点からの別個の説明が必要であり、また可能でなければならない。存在と行為とは同じ「創造」の両局面であり、純粋に行為的な観点からの論理的説明が可能ならば、逆に純粋に存在論的観点からの説明が可能でなければならない。


非常に抽象的で、なんだかワケワカメな話になってきたかもしれない。しかし私がここで論じたいのは、実はとてもシンプルなことである。私は存在論的な観点から、ここに「霊」の実在というものを認めたいのである。「私が私自身の文章に教えられる」ということを、単に行為的尖端的にではなく、存在論的に説明するためには、霊というものを持ち出して来なければならない。ただ霊的存在と言えば、あるいは宗教的にやたら抽象的に理解されたり、あるいは幽霊のようにおどろおどろしいものとして理解されたりするものであるが、私がここに持ち出したいのは、そういう偏見にまみれたものではない。霊的存在というものも、また我々のこの客観的世界を形成する一員であり、西田の言い方で言えば、「創造的世界の創造的要素」なのである。

(この辺の色々の事情は、近代心霊主義、つまりスピリチュアリズムという思想運動、そこで生み出された数々の「霊界通信」について調べてみれば、よく理解されるものである。『シルバーバーチの霊訓』などといったものが有名である。ただ私はここでは心霊主義そのものからは離れて、哲学的見地からこういったことについて説明してみたいのである。)


私、というものも、単にいわゆる生物的身体的なものとしてあるわけではない。この一つの私の中には、動物としての面と、更にそれに加えて霊としての面があるのである。なぜ「私」に霊的領域があると言えるのであろうか。私が単に有機体として本能的に生活するのみであったならば、それは動物的存在であり、確かにこの面を持っていることは事実であるが、それだけでなく、私はそれを自覚するのである。私の身体を一つの駒として持ち、自覚的に「人間」として生活する。動物も社会らしきものを作るが、動物は社会の根底を問い続け、社会の形をいつでも改良し続けようとは思わない。動物的社会の形が変わることがあっても、それは力関係による偶然的変化ということであり、人間的主体が自覚的に理念的に社会の形を変じて行くということではない。人間においては、一個体が、単なる動物と異なって、すでに超個体的なのである。人間的身体には、そういう超個体的領域というものが備わっていなければならない。それがこれまで思念空間と呼んできた領域である。しかしこれは単に個人的領域なのであろうか?否、それはあくまで人間が動物と違って自覚的に社会を作る存在である、というところから来るのである。単に集団的な個ではなく、集団そのものを作る個としての規定から来るのである。ということは、人間は本質的に、この超個体的領域、一面どこまでも個人的と考えられる思念空間というものにおいて、実際に社会そのものを動かす力を持っているのでなければならない。個人的であればあるほど、真に集団的な力を持たねばならない。


我々にはインターネットというものがある。このインターネットは、我々のこの生物的身体にとっては、単なる画面上の存在に過ぎない。我々がインターネットと聞いて直ちに思い浮かべることのできるあの無限の「広さ」はそこにない。しかも一つの画面ではなく、自宅のパソコンであったり、ポケットに入れているスマホであったり、タブレットであったり、学校や公共施設のパソコンであったりするのであり、従って、インターネットなる存在は生物的身体つまりいわゆる身体のレベルでは、ある一つのものであることすらできない。しかもパソコンやスマホそのものも、多くの用途を持ったものであり、インターネットを利用するということも、それらの持つ一つの機能に過ぎない。にもかかわらず、我々は、インターネットというものを、ある一つの自存する広い空間として理解するのである。そしてその広い一つの空間自身が持っている多くの「窓」「口」として、パソコンやスマホの画面などといったものが存在すると考えられるのである。我々の現実にとっては文字通りインターネットは、我々人間的主体がそこにおいて活動し、全体的な形を作って行くものとして、確かに「実在」するのである。しかし何度も言うように、それは生物的身体的には、何か部分的な多数のものであり、色々の断片的なものの寄せ集めに過ぎないのである。こはいかに?


そもそも我々の思念空間、すなわち人間的主体の固有の活動空間が、真に実在性を持ち、客観的世界であるという意義を始めから持つから、こういうことが可能なのである。思念空間において、実際に我々は身体的に、形を作って行くのである。思念は実在的なものとして、形を持ったものなのである。こう考えれば、形の世界、客観的世界というものは、我々が普通に考えているよりも、質的に拡げて考えられねばならない。我々人間的主体は、生物的身体の領域と、こういう思念空間の領域とにかぶさって存在していると見ることができる。これらの領域は別々にあるのではなく、根本的には一つのものとしてあるのであり、ただその内で、生物的領域にウェイトを大きく持つ「形」や、思念的領域にウェイトを大きく持つ「形」、様々なバリエーションの形があるのである。


そこで、こういう立場から、霊なるものも、単に大きな客観的世界の中に含まれた一つの形として見ることができ、つまり一つの身体として理解することができるのである。それも生物的領域と接点を持たないのではない。ただ生物的領域においては、ほとんどその存在が認知できないくらいな、いわば微細なものであるから、我々はほとんどの場合、いわゆる霊的存在を認知できないのである。しかし彼らもまた形なのであるから、本質的には我々のような生物的身体を持つものも同じような人間的存在であったりその他の存在であったりすると考えられねばならない。彼らは常に、我々人間でいえば、思念空間的な領域に存在していることになる。そして、我々は彼らをはっきりと認知できないとしても、例えば日々受けるふとしたインスピレーションなどといった形で、良きものも良からぬものも、思念的に作用して来るのである。ただ我々はそれとしてはっきりと自覚していないだけである。


さて、我々が自己に超越的な客観的世界というものをこの「自己」において考え得るのは、実は、こういう思念空間の客観的現実性があるからである。思念空間においては、その形である思念と思念、霊と霊とは、渾然一体に溶け合って、微細な神経を使わねばそれぞれの形を区別できない。それだからこそ、「私」の思念空間は、私個人の主観的領域であり、この生物的身体の領域とは隔たった純粋な引きこもり空間として我々は理解し、誰にも見られまいと思ってあんなことやこんなことを妄想するのである。だが、そもそも思念空間においては、主観的なものと客観的なものとの区別があまりなく、全て渾然一体に溶け合っているというのが実相なのであるから、実はどこまでも主観的なものと考えられるものは、全て客観的意義を持つのである。それでこういう思念空間的な意味での、客観性、つまり主客溶け合った客観性というものを、この生物的身体的な領域に投影するとき、我々の身体はあくまで他者的なもの、客観的なものということになる。我々は自己でありながら、すでに他者であるもの、ということになる。くどいようだが、それは思念空間においては個人が全体であり、全体が個人であり、個と個とは溶け合って渾然一体となっているからである。この思念空間的な客観性を、生物的身体的領域に投影することは、世界をロゴス化する、ということであり、世界を世界として自覚化するということであり、こういう手順によって、はじめて人間的主体というものは、社会というものを作ることができるようになるのである。元々霊界における主客合一的な在り方の記憶が、人間には残っているからこそ、物と物とが断絶し、一体性の少ない、この生物的身体的領域においても、世界そのものを一つの世界として個性化、主観化することができる。世界の主観化は要するに世界の客観化ということなのである。







ようやくここで始めの話に戻ってくることができる。純粋に一人で物を考え、書くのであっても、それは単に生物的身体的にそうであるということに過ぎず、実は我々人間的主体は(そして実は全ての存在、形は)、同時に思念的領域にもかぶさって存在しているのだから、はっきりと自覚的に認知できなくても、他の霊的存在と常にやり取りしながらそういうことをやっているのである。動物もまた思念空間にかぶさって存在しているのだが、彼らの意識の焦点は、この生物的身体的領域と非常によく合致していて、特にそこに苦悩を感じることはない。ただ本能的に存在していれば良いのである。しかし我々人間的主体の焦点は、より思念空間に近づいたものとなっているからこそ、我々の生物的身体的領域には、なんだか違和感を感じる。そのままではなんだかいけない気がする。物と物とが分裂しているように見える。世界が重く、鈍いように思われる。元々私が他者であり、他者が私であるということは真実であり、どこに行ってもそのことは変わらないのだが、思念空間に焦点を強く当てていたとき、すなわち霊として生活していたときは、私と他者とは相互によく溶け合っていた。だが、生物的身体的領域においては、私はこの一個の物体に収まって、これを単位として動く存在となっている。他者的なものがより他者として強く意識されるようになる。この自己の身体もまた他者的なものとして、思い通りにならぬものとして強く意識される。内在即超越は、内在的と超越的とがはっきり分離した形で意識される。いつでも本当は私が他者であり、他者が私であるということを離れないのだが、この領域ではほとんど私と他者とは別々のものに見える、だから私が一人で過ごすということは、とても孤独なことであるように思われてしまうのである。だが超越的私自体、つまり真の孤独者としての私は、この身体の見かけの孤独において存在するのではなく、むしろ全体的世界の創造的刷新において存在するのである。つまり私が世界そのものを自己の内に主体的に把握し、これを行為的に変じて行くところに存在するのである。私が世界の個となるところに存在するのである。世界全体を自己に把握するというのは、この生物的身体的領域から考えれば途方もないことのように思われる。しかし、我々は本来霊的存在として、いつでも霊的領域にまたがって存在している。動物とて同じであるが、人間的主体においては霊的領域へのフォーカスはより強いのである。そして霊的領域においては、全体が部分であり、部分が全体であり、相互透入の様相を呈しているのであるから、個が全体を掴むということはそもそも自然なことなのである。だから世界の個となることそれ自体は全く問題なく可能なことなのであるが、これをこの生物的身体的領域ではっきりと形に表して実現する、つまり世界の全体の形を行為的に、創造的に形成する、ということをするには、特別の工夫が必要である。そしてそれが我々人間的主体に固有の、言葉というものである。


言葉、これは実に不思議なものである。私がここに込めたい意味は、単にいわゆる言葉と言われるものだけではない。ロゴス的意義を持ったもの全て、人間的主体に固有の、自覚的、社会的な意味を持ったもの全てである。上にインターネットの例などを出したが、こういったものもまた、私は「言葉」の中に含めたい。言葉というものは、ただ行為的であること、すなわち世界の形を自覚的に創造すること、こういう主体性からのみ理解できるものであり、またその存在の必然性が理解できるのである。


さて、この「言葉」の仕組み、これによって、我々は本来の霊的領域における一体性もいうものを、この生物的身体の領域においても実現できるわけである。それは全て何らかの意味で記号的なあるいは象徴的な仕組みである。我々人間的主体の固有の主体性の表現を担ったこういう「形」の様式があるおかげで、生物的身体的にはバラバラに存在する個々の人間的主体が、その本来の霊的な一体性というものを表現できる。言葉というのは、だから全く常識的な見解の指し示す通り、我々人間的主体の行為の「媒体」となるのである。言葉によって、我々はこの生物的身体的領域にありながらも、常に思念的、霊的領域に直接アクセスすることができるのである。


生物的身体的形においてありながらも、同時に思念的領域において、常に霊的存在として我々人間は存在している。この「言葉」なる媒体を使用するとき、それは見かけ上孤独な行為であったとしても、それはいつでも霊的存在たちとの対話という意味を持っている。個人的思索、個人的執筆なるものも、それが個人的という意味を持てば持つほど、実は優れて社会的な営みなのである。個人的意識があって、その表現のために記号が生まれ、そこからそれを中立ちにして社会というものが作られていったのではない。元々人間的主体はその始めから社会的であったのであり、その本来的な社会性を、この生物的身体的領域でも実現しようとしたときに、必然的に、そういうものを担う独特の形が自ずから生じていったのである。そして我々はこの言葉なる媒体に自己自身を照らされることによって、外から内を知るのである。そうして自己の本来のアイデンティティーをより深く自覚して行くのである。


以上が、「自己自身に教えられる」ということの真相であろうと思う。そして私自身の常識的感覚にも、それが一番しっくりくる説明である。つまり我々はいかに生物的と思われても、すでに霊的であり、どこまで行っても社会的である、ということが根本的な理由である(プラトンイデア論なども結局こういう事情をギリシャ的に描き出したものではないかと思う)。私も、多分、これを書きながら、私自身にはそれとしてはっきり認知することのできない色々の存在に教えられたりしながら、思索を進めているのであろうと思う。彼らが別に見えなくても良い。やはり肉体人には肉体人としての分があり、変に霊的領域というものにこだわっても、ロクなことはない。私はただ人間的主体というものを、それ自身に即してより深く理解するための道筋を示そうとしたのみであって、肉体人であるということから離れて、怪しい宗教に誘い出そうとするのでは決してない。私にとって、霊的領域というのは、単純に現実的な問題なのであり、今までの社会では神聖な祭壇へと押しやられていたものを、食卓に引き下ろして食べてみる必要が私自身の中で生じてきたからこそこんなことを考え、論じることになったというわけである。時代は変わって来ているのである。


真の善が悪であると誤って思わされてしまう、そのロジックについて

部屋の中に居て、ふと手の匂いを嗅ぐ。すると猫の糞の臭いがする。さっき手を洗ったばかりなのに!こはいかに。実は猫の糞の臭いは、さっき猫が猫のトイレにウンコをしたから、その臭いが臭ってきたというだけである。


ただ今までは部屋全体の臭いを気にしていなかった。食事に夢中だったからである。しかし自分の手の匂いを嗅ごうとふと思い、匂いというものがそこで意識されてくることになったわけであるから、そこで、元々部屋全体に漂っていた猫の糞の臭いがはっきりと私の鼻に嗅がれることになる。しかし当の私は、「自分の手」の臭いを嗅いでいるのだから、期せずして他ならぬ自分の手が猫の糞臭いのだ、と思ってしまうことになる。そして我が手の臭さに落胆することになる。


思うに、これが、世の悪人のやり口である。


大体真の善というものは、人にはなかなかわからぬものである。なぜなら、真の善とは、はっきりと自己自身を主張するもの、ある積極的なものではなくして、むしろ、全ての偏りを排した、どこまでも中庸なものにおいて見られるからである。真の善人はあくまで謙虚であり、悪に屈せず、淡々として冷静、霊性であり、日々の己の務めを果たし、日常を平凡に暮らすのである。さっき臭いを嗅いだ私の手は、ここではあくまで平凡なものとして、善人である。つまり、善人と言われたときに想起されがちな、あの積極的善人、押し付けがましい善人ではなく、真の控えめな善人である。


別に部屋の臭いが悪人だと言うのでないが、悪というのは、こういうのを巧みに利用するのである。本当は辺り一面にくまなく広がっていて、誰であってもその影響下にあるようなものであっても、そういう誰しも影響下にあるものであるが故にかえって普段明確に意識されることはない。人間の意識というのは実によくできていて、よっぽどひどい環境であっても、そこで暮らすしかないとなれば、そこに居る人達は、容易にその状況を「甘受」してしまう。そしていつしかそのひどい状況をひどい状況とも思わなくなる。もはやただの空気となる。そんなことよりも、彼らにとっては、日常の色々の関心事の方が重要なのである。しかしほぼ空気と化していたとしても本当になくなったわけではない。それはいつでも意識化され得るのである。


悪は、こういう事情をよく知っておりながら、それを人には言わずに隠しておく。しかも、往々にして、その環境一帯に漂う悪臭は、その悪自身から生まれてきたものである。悪自身がそれを自覚していれば良いが、これも往々にして、都合の良いことに悪臭か他ならぬ自分から生まれてきたものであるとは思わない、あるいはそのことを忘れている。己で己を欺く。それで、悪にとって、まことに目障りなのは、真の善である。なぜなら、誰しもそこらに漂う悪臭の影響を受けて、それなりに悪的になっていて、もはや自ら意識できない状態になっているのに、真の善は、そういうものの影響下に同様にありながらも、己の悪的なものをいつでも恥続けている。気をつけている。無論真の善にとっても悪臭の出どころはよくわからないし、己がそういうものの影響を受けているらしいことはなんとなくわかっていても、どこからどこまで、などといった細かい正確なことはわからない。ただ己の悪的なもの、不合理ながらやはりどうしても幾ばくかは存在する良からぬものを、できるだけ偽りなき目で見つめ、見つけ次第それを正して行こうとする心の傾向を持っている。だからもし己の中に大きな悪があるとわかれば、彼は無限に恥じ、気を落とし、あるいはショックのあまり再起不能となってしまうかもしれない。なぜなら、真の善は、己の中の大きな悪を、もはや己の本性なのではないかと、勢い余って勘違いしてしまうからである。


とにかくショックというのは万病の素であって、それは事実の冷静な認識を狂わせる。悪的なものはより大きな悪として見えてしまうことになる。しかしその作用は同時に善的な方面にも働くのであって、ナイチンゲールの高潔さに感銘を受ければ、その人は高い志を抱いて生涯を送ろうと決心することになる。が、ナイチンゲールとて実際には、己の役目を淡々と、力強く果たしていただけなのである。


それはともかく、善は悪に敏感であり、それも人の悪よりは己の悪に敏感であり、人の悪に対しても己のことのように思い、深い同情を持って眺める。悪にとってはこれはまことに目障りなことである。真の善によって、悪は無効化されてしまう。だからいじめてやろうと思う。


悪は、悪臭が全体に漂っていてしかも空気と化しているという事情を巧みに利用し、善人に対して言う。

「己の臭いを嗅いでみよ、その臭いが己の偽らざる姿だ。己の存在を恥じよ、所詮それがお前の本性なのだ。わかったか。」

その善人は、周りの人達よりもずっと悪に、それも真の悪的なものに対して敏感であり、周りの人達の押し付けがましいあの偽善的正義の態度とは隔たったものを持っている。だからこう言われて、押し付けがましい善人たちはまさか自分のこととはつゆ思いもしないが、真の善人は、本当に文字通りそうだと思って、無限に恥じ、気を落とすことになるのである。なぜなら、「己の臭い」は本当に、嗅いでみると臭くてたまらないのであって、しかも周りの善人()達には全く臭わないらしい、いや臭ったとしてもそれは他人の臭いだろうと思うらしいのであり、だから必然的に、この世界に己ばかり悪なのだと思われてしまうのだから。


だが、その臭いは、実はその場一帯にくまなく広がっているものなのである!皆その影響を被っているのである。しかもその臭いの根源は、「己の臭いを嗅いでみよ」と言った他ならぬ彼なのである。


そういうわけで、真の悪というものは、間違いなく偽善のことである。いわゆる悪というもの、例えば殺人だとか、残虐行為だとか、そういうのは真の悪ではない。それはむしろ動物的であるということだ。人間なのに動物的であるということだ。真の悪は、どこまでも善人の顔を持っている。己を正義と信じて疑わない。何か悪が見出されたとすれば、それは自分ではない、他人だ、と平気で思う。平気で人のせいにできる。そのくせ心のどこかではそのことを全て知っているのである。だから尚更、悪臭を人のせいにして置かずにはいられない。そういう時、一番狙いやすいのは、そして同時に一番狙わ「ねばならない」のは、真の善である。真の善は、積極的に己の善を主張しようとも思わないし、人に悪を見ようとも思わない。むしろ己のの中にある悪を常に意識し、無限に恥じ続けている。だからこそ、悪は、そういう善に対して、周辺に漂うものと、自己自身に固有のものとを混同させるように仕向け、あくどくも狙い撃ちするのである。


悪のやり口は、人に罪悪感を抱かせるということである。己が正義の顔をするのである。


それはけしからんと、真の善が立ち上がることもある。この時、真の善も、悪に対抗すべく、同じように正義の顔をする必要がある。しかし善にとっては、それは偽悪ということであり、本来そうしたいわけではない。本当はただ平凡に、己の務めを一生懸命果たし、穏やかに日々を過ごしたいのである。


だが、真の悪は、まことに狡いことこの上ない。彼は「本当の善は、己を積極的に主張することはない、正義面することはない」ということをずる賢く捉え、これを真の善への攻撃の口実とする。しかし真相は、真の善が、仕方なく偽悪的にそういう態度を取ったというまでである。真の善は、その正義面によって、己の善を積極的に主張しようとしたのではない。真の善は、真の善がまた自ずから別のところにあると知っている。要するにどこにも偏らず中庸であるということである。


真の善は善悪を超越するが故に、時によって悪の顔を持つことができる、時には善の顔を持つことができる。しかし積極的に善の顔を持つということはむしろ悪なのであるから、要するに文字通り真の善は善悪を超越するのである。しかも真の善は、いかなる善にも悪にも内在するものなのである。西田幾多郎の言う、内在的なるものが超越的であり、超越的なるものが内在的である、というものである。


我々は真の善を、すなわち善悪そのものを超越することを目指すべきであろう。否、すでに我々の全ては、意識していようがいまいがそこを目指しているのである。なぜなら、全ての善悪に真の善は内在するのであるから。


真の善は善悪を超越する、ということは、全てのものを、全く曇りない目で、正しく認識できるということである。全てのものが、全く実相そのままの姿で、眺められる。悪がやるように、物事の原因を混同する、させようとするようなことはしない。


物事は裏も表も見なければならない。なぜなら物事は裏と表から成っていて、裏と表とが一であるものがその物の全体なのだから。罪悪感を積極的に抱かせようとするような態度を見出したとき、注意すべきである。そこには裏がある。正義面は、必ず真の原因の取り違えを前提にしている。正義面が偽善であるときも、偽悪であるときも、そこには必ず真の原因の取り違えという事情が潜んでいる。偽悪の裏には善が、偽善の裏には悪がある。しかも偽悪を装い己を真の善と見せる偽善もある。偽善を装い己を真の悪と思い込む偽悪もある。善悪の善、悪善の悪とも言うべきものである。


本質直観とは、単に客観的な物を物として、受け止めるものであってはならぬ。こういう悪善(偽悪)、善悪(偽善)、善悪の善(偽善的偽悪)、悪善の悪(偽悪的偽善)と言った立体的で微妙な事情を深く見つめることこそが真の本質直観でなければならない。こういう意味を持って初めて本質直観は実践的な考え方であることができる。すなわち真の本質は善悪そのものを超越した真の善にあるのであり、全ての善悪に内在するものなのである。本質直観でない直観は存在しない。本質とは、その時々の実践的必要性に応じて、現れてくるものである。偽善の悪もまた真の善への一つの道である。



円に関するちょっとしたメモ。中心と円周との関係について

この前の記事で、一般者ということを論じるのに、円周とか直線的とかそういうことを持ち出した。直線的なものが円環的なものである、ということそれ自体は事実であるが、論じているうちに、なんだか自分でもよくわからなくなってきた。もう少し考えてみたい。


円とか直線とか方形とか、こういう単純な図形というのは、世界そのものの根本原理をよく表現したものであり、これらの図形に含まれたそれぞれの要素について深く検討してみれば、我々の実在世界そのものの自己形成の論理が掴めてくるものだ。


が、いまは、いちいちこれらの図形を細かく取り上げて論じない。これは、円に関して、中心と円周との関係についてのちょっとしたメモである。





普通に円というものには中心があり、円周があり、これら二つの関係は、となれば、それは円周が中心を回るような関係ということになるだろう。円周上に一点があり、中心との一定不変の距離を保った上で、ずっと回り続ける。ここに一つの円を見ることができる。


円というのを、とりあえず、こういう二点の上下の関係、一方は停止し中心にどっかと腰を据え、他方は一定の距離を置いてその回りをどこまでも回り続けるという関係であるとして置こう。


が、これは、空間なるものが、ある固定した静止的なものであるという前提に立つときに言える事実である。円と、円の於いてある空間とが別々に考えられるとき、これら二点はこういう関係を保つことができる。中心なる一点がいつまでも中心として、不動のものとして見ることができるのは、言って見れば、この空間というものの静止に与って、この静止に同調して自らも静止しているからだ、と見ることができる。一点は空間の中で、空間とともに静止し、もう一点は空間の中で、空間上を動いているのである。


しかし円を、こういう固定した空間というものを考えずに、ただ純粋に二点の関係のみにおいて見るならば、どういう事態が生じるか。さっきのは、つまり円そのものと、観察者とが離れていたのであり、観察者は、三次元の立場から、二次元平面に描かれる円を外から見ていたのである。ところが、今、観察者は、二点の内いずれかに置かれる、観察者そのものが関係の内に置かれる。観察者は、なるほどいつでも観察者として第三の立場にあるものだが、今度は、この二点のいずれかの内にあるということをそのまま保った上で、同時に第三の立場に立たねばならない。


こういう風に見るとき、二点とは、互いが互いに向かい合うという関係に立つのであり、両者は常に互いから同じ姿で見えている、と言うべきであろう。常に等しい距離で互いに向かい合っている、それだけの関係である。


もしそれだけなら、それは円ではない、単に二点を両端とする直線があるばかりである。しかし二次元の円ではなく一次元の円とはむしろこういった単なる直線でなければならないであろう。円とはこういう一次元的な、二点の関係に基づいたものと考えられるであろう。何次元の球であろうとも、根本的には、この等距離に保たれた二点の関係に基づいたものであると言えるであろう。


さて、ここから我々の主体的現実とも照らし合わせて考えてみよう。要するに我々の人格としての最も基本的な関係の在り方は、我と汝ということである。我と汝とは、それが我と彼とか、彼と彼ではなく、まさに我と汝である限り、常にお互いが向かい合い、かつ等しいある距離を保った関係であり、「等距離に保たれた二点の関係」すなわち円を成すものと見ることもできるであろう。そもそも我と汝とは、そこに他を一切容れぬ、その両者だけでやり取りされる相互作用の循環があることによって、つまり世界の中にただ我と汝あるのみといった関係になることによって我と汝であるのだから、そこには円ということが何らかの意味で存在していなければならないであろう。


円とは、この二点の関係に加えて、第三の方向が加わってくることによって円なのだと言った。何度も確認するが、円には必ず中心がなければならぬとともに、一定関係にある二点がなければならない。我と汝においてはどこに中心というものを見出すことができようか。もし単に一方が他方を回るというだけの関係なのであれば、それは単なる主従の関係であり、これは我と汝の一面である。キリスト教においては、神はしばしば、汝と呼び掛けられる。汝こそ絶対の神と言うこともできる。一面には、我に対して汝は絶対に主であるということがなければならない。しかし我と汝とは、全く対等の人格的関係とも考えられる。対等でなければ、両者は一定距離で向かい合う関係となることもできず、従って円を描くこと、すなわち我と汝との関係が成立することもできない。一面に我はどこまでも不動であり、汝が無限に廻転する世界というものを考えねばならぬ。目の前に現れる一切が汝であり、我を照らすものとも言える。地動説と天動説とは一体でなければならぬ。地動説が真実であると言っても、地球と太陽とは、始めに天動説的に理解されなければ、ある一定の関係を保った我と汝の関係であると気付かれることもないのである。天動説の陰には地動説が、地動説の陰には天動説があるのである。地動説においては、汝は唯一のものであって、我は単なる被造物の一員としてちっぽけな存在である。天動説においては、我は宇宙の中心であって、我を廻る無限の星々がそこには見られるであろう。しかし真相は、我を廻るものの周りを廻る我、といったものではなかろうか。我と汝とはお互いに廻り合っているのである。我と汝との関係があるとき、これらを一つの円として結ぶ中心は、単に両者の関係の間に消極的に考えることはできない。それは汝が我に絶対に主であるとともに、我が汝に絶対に主であるという相反する両面がそのまま成り立つ主体的一点でなければならぬ。なぜなら我も汝もともに中心でありながら、二つの中心ではなく、あくまで一つの中心でなければならないのだから。それは真に第三者の方向になければならぬ。第三者の方向にある一点は、単に一点というよりも、ある直線的方向というものでなければならぬ。これは二者を綜合するもの、二者の内的自己超越において見られるものである。


ここで我と汝とを結ぶ、円の中心、第三者の方向ということに関して新たな知見が得られた。我々は竜巻とか台風というものがいかなる形をしているか知っている。私は気象学的知識はほぼ持ち合わせないから、確実なことは語れないが、哲学的見地からこれを見るならば、要するにそれは我と汝との円の関係が成す一つの第三者的な方向という見方から考えることができるのではなかろうか。中心の一点はなるほど、何かある一つのものと見ることができるものだ。しかしそれはあくまで動きの中に、動きそのものによって措定される中心なのであり、動的ということを離れた静的一点ではない。静止した一つの図形としての円が、中心と半径と円周という要素の集積から成るように考えられるものであっても、実際の自然界における事実としては、円として見られるものは、常に円が円自身を越え出て行く第三者的な方向への軌道を伴っている何か動的なものでなければならぬ。この動的一点は動的一点であるが故に、常に円周上の一点でありかつ円の中心の一点であるという意味を持たねばならない。


言い方が抽象的過ぎたかもしれない。


台風の形を思い浮かべてみれば、そのことは理解されると思う。台風は無論単なる円ではない。全体として見れば、確かに円のように見えるのであるが、内部を見れば、廻転する幾つもの筋があるということがわかるだろう。台風の中心は、これら無数の筋の交わる一点として考えられる。さて、ここに見られる筋というものは、なるほど、一応円の半径を成す直線に似ている。ところが、実際は直線ではなく、うねる曲線である。この筋一つを取り出して見てみよう。それらの筋は全て、一方が台風の中心であり、他方が台風の周辺である、という関係になっている。台風の中心は中心でありながら、常にある方向に動いて行くものである。静的な円、つまり普通の円とは、二点の主従の関係によって成り立つものであり、中心があくまで不動でもう一方がその周りを廻るといった構造になっている。しかしここでは中心そのものが動いて行くのである。もし周辺の点が一方的に中心を廻るというだけであったならば、台風の筋は曲線になることはなかったに違いない。そう考えると、要するに、台風の中心は、中心でありながら、何かの周りを廻っていることになるであろう。その何かとは、他ならぬ、台風の周辺の一点である。台風の中心は、自己自身を廻るものを廻るのである。ここでは周辺が中心となる。中心は、周辺の一点となる。風は周辺の一点から中心へと吹き込むものも考えられるが、それはそもそも中心そのものが周辺の一点なのであり、中心から中心へと風が流れるからである。絶対に主なるものが、従なるものの存在の根底であるという構造がここにある。しかし主なるものと従なるものは交わるものではない、それはどこまでも第三の方向へと流れて行くのである。この交わらないものの同一ということが、創造的方向への推進力となるのである。廻転とは、同一の関係を表し、直線的推進とは、その関係が上下の関係であることを表す。直線的なるものが円環的であり、円環的なるものが直線的である、と言えるのである。


とりあえず、これはメモなのだから、この辺にしておこう。




世界に感謝

精神が狂えば、感謝もできなくなる。


私はなんだが、今のうちに、私を生かしてくれた世界そのものに感謝したい気持ちになった。


ありがたい。


無論これは遺書ではない。が、この頃、精神をおかしくして、こういうことに思い至り易くなっている。正気が残っている内に、私自身の正気の証を遺しておきたい。私がこの世界にともかくも生き、世界に感謝し、世界に何がしかの貢献を少しはした、少なくともしたいと願っている、そのことの証を、何らかの形で遺しておかずにはいられない。




苦痛と虚無感は質的に違うという話を前にした。苦痛には、正気がある。苦痛を苦痛と感じることができるならば、まだ良い。彼は苦痛に感謝すべきである。苦痛そのものから、彼は、今どうすべきなのか、自ずからわかるからである。苦痛はそれ自身が自己否定的に主体を動かす。苦痛は、主体にとっては、幸福への切実な希求というものを伴って現れてくる。


真に病的なのは、虚無感というものである。これは、ただただ気の遠くなって行くような感情であり、あらゆる心の病の源泉ではないかと思う。


虚無感への道とも言うべき感情は恐怖と不安であろう。恐怖と不安とは、耐え難い苦痛を伴ったものであるが、同じ苦痛でも、単なる苦痛が、主体的には幸福への真っ直ぐな希求であるのと違って、そういう求心的なものそのものが薄れて行く方向であり、心の分裂して行く方向である。ただ分裂と言っても、恐怖や不安においては、自分自身の「殻」に固く閉じこもることができる。これは、単なる苦痛と違って、単純に幸福への主体的な求心という形ではないが、精神が分散しそうであっても、尚主体が主体的なものを保とうとして、何がしか心を一つのところに集めようと必死に努力していることの表れである。


この恐怖と不安の耐え難い虚無的苦痛の背後に厳然と横たわってあるのは、憂鬱であろう。が、ここでも、殆ど失われた気力の、わずかに残っている分を掻き集めて、必死に自己自身の内にふさぎ込むことができる。恐怖や不安においては、このふさぎ込み自体が尚主体的であったが、憂鬱の場合は、殆ど受動的で、純粋に本能的な防衛と言えるものであろう。例えば憂鬱の内にある者は、部屋に篭って寝込むことができる。何かやろうと思う、しかしどうしても憂鬱でできない。が、とにかく何かやろうと思うことがあるという点ではやはり主体的なものがしっかり残っている。憂鬱は、何と言っても、仮にそれがいかに長い期間を要するとも、休息によって、確実に回復が可能と、常識的には思われている。


恐怖は発作的なところがある。不安もまたそうである。が、憂鬱はむしろ、これらの背後にいつもくっ付いていたものであり、恐怖や不安の発作が小康状態となるときに現れて来るものであろう。憂鬱には、上にも述べたように、辛うじて主体的なものが残されている。しかし彼が完全に主体性を失ってしまったとすれば、そこにあるのは虚無感であろう。


被害妄想、誇大妄想、多重人格的に豹変する性格、こういうものに完全に囚われている人たちが居る。これらに伴っている感情はおそらくほぼ確実に恐怖や不安というものであろう。では、恐怖や不安が伴っているから、これらは何がしか主体的なものであろうか?しかしこれら精神病患者は、すでに完全に主体性というものを失ってしまっている。いわば精神の分裂状態である。なぜ実際に恐怖が不安という感情がそこに伴うにもかかわらず、それは先に述べたのと違って、幾ばくかは主体的であるということすらないのであるか。


先に恐怖とか不安は、必死に自己に閉じこもろうとするという点で、主体的である、と言った。ここではまだ、閉じこもる自己というものがあるのである。この段階では、まだ恐怖や不安は制御が可能なものであり、恐怖や不安が他ならぬ恐怖や不安として自覚されている。彼はこの状態を一刻も早く脱したいと願う。そしてそう願っているだけそれは主体的なものを持っているのであり、苦痛の一つのバリエーションと言えるものなのだ。


しかし被害妄想とか誇大妄想といった、精神の分裂状態においては、もはや恐怖とか不安といったものは、彼自身にとって、そういうものと理解されてすらいない。彼にとっては、もはやその感情が当たり前の状態になっており、部屋に盗聴器が仕掛けられているのだという思い込みとそれへの恐怖などというものは、全く疑われるべくもない事実なのである。彼にとっては、この恐怖それ自体を何とかしようという意思はない。すでに何かに取り憑かれてしまっている。彼が発作的に起こす、問題解決の行動も、本当に問題解決を願って行動しているわけではない。ただこのわけのわからない、自然状態と化した恐怖という感情それ自体が元々持っているものとして、自動的に機械的に引き起こされる行動に過ぎない。


そういうわけで、こういった精神分裂状態にある人たちの、本当に固有と言える感情には、恐怖や不安といったものとは別の何かが割り当てられねばならぬ。それが虚無感というものなのである。


普通虚無感といっても、単に虚しい気分、といったものが想起されるであろう。しかし単にそういうはっきりと意識される虚無感というものなのであればそこにはまだ救いはあるのである。そもそも虚無感とは、あらゆる否定的感情の背後に横たわったもの、全ての善なる感情を呑み込んでやまない悪魔的なもの、否悪魔的というほど人格的なものでなく、全ての人格的なものを否定したもの、全ての生を否定するもの、絶対の死とも言うべきものである。先に苦痛、恐怖や不安、憂鬱、といった否定的感情を取り上げて、それぞれがとにかく何らかの意味で主体的なものを残しているということを言ったが、虚無感においては主体性の完全なる否定ということになるのである。苦痛、恐怖、不安、憂鬱といったものから、その主体性の一切を奪い取ったとき、そこに顕れるのが虚無感である。


一度この虚無感の闇の向こうへ行ったならば、そこには精神の分裂状態が待っている。虚無感こそが分裂の極みであり、絶対の静止なのであるから。我々は虚無感は虚無感としてまず自覚せねばならない。虚無感を虚無感として感じられるのは幸いなことである。なぜならば、絶対の死を絶対の死として自覚できるということは、すでに絶対の生を掴んでいるということに他ならないのであるから。


精神分裂状態にある人にとっての、恐怖や不安というものは、もはやその人自身にとっての、ある主体的な感情としての恐怖や不安ではない。その感情は、もはや、何者かの感情なのであり、その人自身ではないものによる憑依とか、あるいはその人自身が人格分裂を起こしたものと考えられねばならないであろう。つまり、自己によってではなく、他者によって、強制的に持たされた精神状態であり、こういう分裂状態を、その当人が分裂状態として自覚しなければ、彼はいつまでもこのわけのわからない感情の状態を続けることになる。こういう場合、恐怖や不安は、単に恐怖や不安を取り除くといった方法によるのでは真に取り除かれ得ない。なぜなら、彼の恐怖は、もはや別の人格の恐怖なのであり、彼自身の恐怖ではないからである。


精神分裂状態にあるものにとっての固有の感情というものは、従って、彼自身の主体性を、皮一枚で繋いでいるものは、虚無感というものに他ならないのである。虚無感とは、先に言ったように、主体性そのものの否定である。主体性そのものの否定という段階に、つまり自己自身の死という段階に彼は至ってしまった。これに対して無自覚で居続ければ、要するに彼は、わけのわからない、自動化、自然化した、無限の恐怖や不安の闇を彷徨い続けることになる。が、虚無感は虚無感として、確かに横たわっている。無としてそれは横たわっているのである。彼はこの無を自覚せねばならぬ。それのみが彼を救い出すことができるのである。


では虚無感の自覚とは何であるか。それはまず、自己自身の置かれた状況に対する無限の???状態であろう。彼はなるほど確かに彼自身である。彼自身の主体性というものは、この虚無感の自覚によって、皮一枚で繋がれているのだから。しかし彼の主体性には、完全に中身が無い。無である。彼は彼自身であるのに、彼は全く彼自身として規定できる何ものも持ち合わせない。だから彼はこの状況に無限に???となる以外にない。


しかし虚無感の自覚とは絶対の死の自覚してであり、それは裏面に、絶対の生の自覚である。絶対の生の自覚とは、感謝である。感謝とは、何かへの感謝ではない。それは感謝の本質的なものではない。感謝とは無限に広がるものであり、果てのないものである。愛そのものである。特定の何かへと感謝が向けられるとすれば、その特定の何かは、すでに無限の広がりにおいて、無限の生命との根源的な結び付きにおいて理解されたということである。我と汝とは、一つの根源的生命において、全く一つに結び付けられるのである。否、元々結び付けられていたのを、改めて確認し、讃えるのである。


虚無感には、身体というものがない。身体があっても、ないのである。しかし絶対の死の淵から蘇るとき、我々は身体を身体として取り戻さねばならない。我々は自己の身体に感謝せねばならない。すなわち自己の身体を、無限の生命との根源的繋がりにおいて理解せねばならない。身体とは何であるか。行為するものである。動く機関である。根源的な生命、全体そのものが、部分としてあるものである。部分なのに全体であるものである。虚無感においては、全体は単に全体であり、部分は単に部分である。そこにおいては、全体と部分とは絶対の正確さを以って理解されている。主体的な制約による歪みはない。が、そこから絶対に翻り、絶対の生の面に我々は撞着するのである。部分は部分であって全体であり、全体は全体であって部分である。相互が相互に入り込み、世界は無限に生命と生命との行き来し、出入りする、弥栄の世界と見られる。これこそが世界の実相である。


我々は身体というものを尊ばねばならない。身体は常に環境を持つ。環境とは全体である。身体とは部分でありながら、常に環境を持つものとして、全体ごと動くのである。身体が少し動けば、それは環境ごとが動いたことになるのである。身体というものは部分でありながら、それは単に使用されるというだけで、直ちに根源的生命との結び付きの証となる。まず、我々の主体性そのものを担ってくれている、我々自身の身体に感謝せねばならない。身体こそが、我々の精神と根源的生命との対話機関である。


精神が、純粋の精神となり、肉体から完全に切り離されるとき、そこにあるのは「我思うゆえに我あり」である。しかしこれは、私がここで論じた虚無感である。虚無感は生の否定そのものである。そこに実体としての精神というものを置くことはできない。我々の精神はあくまで肉体的なものでなければならない。精神と物質との綜合として肉体というものがあるのではない。根源的生命の、一つの「弾け出」として、我々の身体的生命というものがあり、身体的生命が他の身体的生命と立体的に、どこまでも相互に出入り行き来しながら重なり合い、働き合う中で、一つの身体的生命自身の持つ両方向として自覚されるのが、精神と肉体である。だから我々の生命そのものが本質的に感謝なのである。身体を使うということは、世界を讃えるということであり、世界に感謝するということであり、また自己を讃えるということであり、自己に感謝するということであり、他者を讃えるということであり、他者に感謝するということである。


私は、私自身の持っている色々のものが失われたとしても、仮に記憶や知能や手足が失われたとしても、そこに残る固有の身体的生命を、生き切りたい。すなわち世界に無限に感謝して生きたい。どこまで行っても、何がし失われても、最後に残るのは感謝のみである。感謝があれば、何が失われようとも、本質的には何も失われていない。それは根源的生命そのものに他ならないのであり、自己自身のほんとうの姿に他ならないのであるから。


人は、とにかく、どんな状況であっても、今置かれたそれを、感謝し切るものであろうと思う。ここにしか生命というものはないのである。だから、とにかく今、全身でこの世界に感謝したい。感謝に感謝したい。感謝が、感謝に、感謝するのだ。怪しい宗教と思われようと気にしない。私は必死であり、本気なのだ。


実家の猫を見て。「口」の世界と、宗教性について

❇︎「口」の領域


「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」

‭‭マタイによる福音書‬ ‭7:21‬ ‭JA1955‬‬

http://bible.com/81/mat.7.21.ja1955


エスはこう言ったと言う。


人間には口がある。口というものが、独立した領域を持っている。この点が、動物と大いに異なる点である。


動物においては、口は、その本能的行為と一体化して、その有機的な営みの中で使用されるものに過ぎない。つまり、食ったり、噛み付いたりする器官、ということである。口そのものが本能的な領域を離れて自存していない。


が、人間においては、口というものが、単に本能的行為的なものを離れて、別個の領域を持っている。これをロゴス的領域と言って良い。我々は文字を書いたりなどするが、人間固有の記号的世界というものがあるかに思うのは、そもそも口というものが、単なる動物的身体の一器官という意味を離れて、独自の意義を持った特別のものとして機能するからである。我々が日常面している、あらゆロゴス的なもの、例えばここに書く文章のようなものもそうであるが、そういうものは、全て我々の「口」の外部延長と言って良いであろう。


何が言いたいか。「口」の領域が独自のものである、ということは、それ自体が、一つの独立した、自存的な世界であるという意味を持つということである。


口の世界には、あらゆる部分的領域が属している。例えば、文学。文学こそが口の世界、ロゴス的世界の最も基本的なものであるが、ここには真に世界そのものの縮図とも言うべきものが詰まっている。神話や英雄譚、叙事詩などといったものは、その民族の固有の世界観の表現であり、その中に我々の主体性そのものが詰め込まれている。あるいは人文科学的なものもまた一つの文学である。ここに哲学や歴史が属する。歴史というのは、神話的な意味も、事実の記録的な意味も、科学的な意味も持つ。神話とはこの世界を主体性に即して把握したものであり、科学とはこの世界を環境性に即して把握したものと言うことができるだろう。主体と環境によって世界が成り立っているというならば、その両方面をくまなく把握する、ということは、世界そのものを内に詰め込むということになる。

普通に我々が文学と呼ぶのは、いわゆる「文学」であり、坂口安吾であり太宰治であり兼好法師でありシェークスピアである。これは主体が環境において生き抜く、まさにそういう世界の有り様を描くものであって、主体にも環境にも偏ったものでもない。がこれもまた世界そのものを描き出すものと言えるのだ。


このように、口の世界というものは、殆どそれ自身が一つの独立した世界と言って良いし、また現実世界そのものの縮図と言って良いのだが、このために必然的に生じる弊害というものもある。つまり現実から剥離し得るという点である。


ファンタジーなるものはこの性質をうまく利用したものである。それは嘘の世界に、他ならぬ現実世界を読み込ませることができる。環境的には不合理極まりないものであっても、主体的にはどこまでも真実味のあるものなのだ。


早い話、口の世界においては、嘘が付ける、ということだ。嘘と言えば、普通それは単にネガティヴなもの、無意味なものとさえ考えられるが、現に嘘というものが現実世界そのものを左右する大きな事実として存在している以上、そこに積極的な意味を認める必要がある。嘘が悪かどうか、などといったことよりも、それが現にこの世界において何らかの機能を果たしている、何らかの役割を持って働いている、そういう面を見なければならぬ。


嘘が可能なのは、主体というものが、環境から離れて、しかも単に離れるだけでなく、「口」の世界を、ロゴスの世界を内に持つことによって、それ自身また環境的なものの意義を持つことができるからである。短く言えば、主体が環境的になったものが「口」の世界である。主体が、環境そのものから離れて、ミニチュアのように環境を自己自身の内に作り上げる、という言い方もできるか。


嘘は虚の事実でありながらも、元々ロゴス的世界なるもの自体が、真実の環境からすれば虚の環境とも言うべきものなので、逆に虚つながりで、それ自身実体性を持つことができる、というわけなのである。ロゴス的世界に存在する、という規定があるおかげで、嘘というものもまた一つの「実」として、主体を動かすことによって、一つの世界そのものを動かすことができる。


嘘が現実世界を動かした例、これは正直挙げるまでもない。そもそも考えてみよ。この世に嘘でないものなどあるであろうか?しかし嘘であるかもしれないという疑いを常に持ち、一応真実であるとしてロゴス的世界に何か「形」を投じるならば、それは仮説と呼ばれるべきもののことであろう。仮説とは、虚と実との中間者であるとも言えよう。が、我々の世界は、そもそもこういう仮説的な事実によってのみ動かされてきたものなのだ。これを歴史的形成の世界と言う。政治なるものは、まさに仮説的なものによって動かされるものである。その真実性は、結局、それが最終的に現実世界にどのような結果をもたらしたか、ということから知られねばならない。現実の世界が常に、仮説的であるということは、ロゴス的世界と真実の環境的世界とが常に相互循環的に、作用し合っているということを意味するのである。


仮説とは、常に主体性に訴えるものであろう。嘘もまた主体を動かすという意味を持つとき、仮説という意味を持つ。ロゴス的世界は、常に現実の環境への反映を前提にして初めて積極的な意義を持つことができる。嘘がロゴス的世界においては「実」の意味を持つ、というのも、ロゴス的世界なる虚の領域が、現実の環境世界そのものの形成に、より創造的な視野から見て役に立つからである。現実の環境とロゴス的世界との対比は、そのままロゴス的世界自体と仮説的なものとの対比に当てはまる。


嘘が現実に創造的な意義を持つというのは、根本的には、現実そのものが単に現実的なものではなく、それ自身が常に仮説的であり、表現的なものであり、創造的に刷新され続けることによって新たに照らされ続けるものだ、ということから来る。ここから行為的なものが考えられねばならない。行為とは単に主体が一方的に環境へ働きかけるということではない。なるほど、行為というものがあるには、主体が環境を超越したものを持つとともに、環境もまた行為を一つの客観的結果として反映させる役割、つまり主体を超越したものを持っている必要がある。つまり両者は一面互いが互いに完全に独立した超越的関係である必要がある。だから主体が超越的立場から一方的に環境へ働く、こういうことも一面の真実である。が、両者は内在的関係でなければ、そもそも、一つの「世界」なるものが存在することもない。世界は一つのものである、当たり前の真実だ。両者が内在的関係である、というのは、環境が主体内において把握され、また主体が環境的な意味を持つ、ということである。つまり、環境的世界そのものが自己自身の内に自己自身の縮図として持つロゴス的世界なるものが必要なのだ。そして主体はこのロゴス的世界の内に環境を把握することによって行為するのである。超越的なものが内在的であるところに、現実世界の創造性はある、と言える。

(主体が環境を、環境が主体を幾ら内在化しようとしても、両者の根本的な超越性はいつでも保たれるので、両者は結局無限に創造的な関係だということになる。この関係にある両者を私は理念的形式と呼ぶ。)


少し回りくどいが、要するに、ロゴス的世界は、現実世界と、その創造的働きにおいて一であることによってのみ、「実」である、ということである。もし、この意義を理解せずに、ロゴス的世界がそれ自身独立した一つの世界である、という性質のみを捉え、これを悪用したとすれば、そこに嘘なるものが現れてくる。嘘というのは、現実世界とロゴス的世界との間隙に生じるカスのようなものであろう。カスは一つの有機的なものが働くときに必ず生じるものであろう。


こういう立場に立って、ようやく嘘なるものが真に理解されると思う。嘘の反対とは真実、否、誠実と言って良いであろう。嘘は上に述べてきたように、主体性に結び付くということを伴っている。主体性とかそんなことは考えずに、単に事実が誤っているということなら、それは「偽」の命題であり、「真」の命題と対比されるものである。「嘘」にはむしろ、同様に主体的な意味を持つ「誠実」が対するべきであろう。


誠実とは、宗教の問題である。宗教の全てはここにかかっている。何が誠実であるか、いかにして誠実が可能か、そういうことは倫理学の問題であるが、しかし誠実そのものは宗教の問題なのであり、何が誠実であるかなどというよりも、宗教においては、誠実であることが宗教的であり、宗教的であることが誠実であることなのだ。宗教的立場から見れば、誠実なるものの内容には、そして形式には無限にバリエーションがある。宗教においては形式を越えた形式というものがあるのだ。倫理学では形式というものを越えることなできない。


主よ、主よ、と呼ぶ。なるほど、倫理学的に宗教を規定するならば、そういう態度こそが最も誠実ということになるであろう。なぜなら絶対的な存在であるもの、絶対性そのもののにすがること、絶対的なものに与ることこそが、誠実ということに他ならないのだから。しかしそれはあくまで形式的な規定に過ぎない。形式的な規定というのは、本質的に必要条件的なものであり、どこまでも十分条件たり得ない何かがそこに残る。なぜというに、世界が世界であることの十分条件とは、まさに世界が世界であること、現実的であることだからである。形式的な規定というのは、どこまで言っても、私のここで言うロゴス的世界というところを出ることが出来ない。


形式においてでなく、生命において誠実であるということが宗教的な意味での誠実であり、これこそが真の誠実である。これが誠実であることの、真の十分条件であるが、しかしそれは言葉では語り得ないので、沈黙せねばならない、と言わねばならないであろう。が、言葉とは人間的主体に属するものであり、人間的主体それ自身は言葉を越えていなければならない。我々は真の誠実ということを、人間的主体の主体性そのものの根源において見る必要がある。


ともかく誠実の形式的な規定としては、「絶対的なものに与る」という態度を持つ、という規定がふさわしいであろう。これは言わばロゴス的世界の最高位に位置するものである、ロゴス的世界の大中心とも言うべきものである。しかしロゴス的世界は、その根源において、我々の現実的環境において行為する主体の行為的尖端そのものに行き着く。行為的尖端において、ロゴス的世界はロゴス的世界自身を越えるのである。行為は、その結果がそのまま客観的現実に反映する。行為それ自体がロゴス的世界の内容全てを詰め込んだものなのだから、ここではロゴス的世界が、現実の環境世界を媒介にして、自己超越した、という事態が起こっている。行為の結果もまた、更にロゴス的に把握されることになるのだから。そして行為というものはロゴス的世界と現実の環境世界を直接結び付ける、媒介する、否両者をむしろ自己自身の内の両極として見るという意味を持つ。行為的なものこそが、我々の世界のありのままの実相なのである。行為的なものの立場、すなわち真に絶対的な立場それ自身に忠実になるということが、誠実ということであろう。


だから、誠実さとは次のように規定されねばならない。


「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」

‭‭マタイによる福音書‬ ‭7:21‬ ‭JA1955‬‬

http://bible.com/81/mat.7.21.ja1955


天国とは誠実なるもののみが住むことのできる心の王国である。ここにはいかなる外面的なるものも無意味となる。真に霊的生命のみが意味を持つ世界である。


神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。」

‭‭ルカによる福音書‬ ‭17:20-21‬ ‭JA1955‬‬

http://bible.com/81/luk.17.20-21.ja1955


神の国は、あなたがたの「ただ中」にある、と言う。単なる内側ではない、ロゴス的世界の内容ではない。その「内にある」ものとは、神の国であり、絶対の彼方にあると考えられるものである。内即外ということである。


神の国は我々の内にある。つまり、主体の主体性そのものにおいて神の国があるのである。主体性そのものとは、純粋に行為的であるということである。行為的尖端的ということである。神の国とは、どこかに存在する国のことではない。それは常に行為的尖端的に照らされ続けることによって存在する国である。一瞬一瞬新たに神の国が生まれるのである。神の国でない場所はない、場所のみでない、全ての時間、全ての局面、この世界におけるありとあらゆる事象が神の国なのである。


しからばなぜ、我々は「神の国」に到達できないでいるか。それは神の国に「居る」ということだけでは、主体的には不十分だからである。神の国は、何度も言うように、行為的尖端的なものである。これは行為されねばならない、主体的に生きられねばならない。結局我々が神の国を見ることができるかどうか、というのは、天にいます父のみ旨を行うかどうか、にかかっている。


神の国に居る」ということ自体、単なる形式的規定であり、ロゴス的世界的な事実である。つまりそれだけを言うならば、それは「主よ主よ」と呼ぶことである。そうではなく、天にいます父のみ旨を行うこと、これを常に心すべきである。これを誠実と言うのだ。内が外と一体となる。ロゴス的世界と環境世界とが一体となる。曇りなき眼で世界を把握する。己の置かれた座標、歴史的位置、そこに神の配剤を読み取る必要があるのである。


くれぐれも、主よ主よと言うことによって、我は信仰に現に生きているなり、と心得違いを起こさぬことである。文は殺し、霊は活かすのである。


「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。」

‭‭コリント人への第二の手紙‬ ‭3:6‬ ‭JA1955‬‬

http://bible.com/81/2co.3.6.ja1955




❇︎依存心について。実家の猫から。


さて、以上はなんだか抽象的な、大原則論の話である。こういう大原則を、偉そうに振りかざしてそれで事足れりと済ますこと自体が、「文字に仕え」ていることになるのだ。もっと、現実的で具体的なことというところで論じてみよう。


我々は、なるほど、宗教的に言えば、神に与ることによってのみ誠実であり得るのは、事実である。しかし、それは神に依存せよ、ということではない。神とは、一切の依存を離れたところに存在するものである。


普通に考えられるように、神こそが依存を離れたもの、真に自己自身によって在るものと考えられる。が、真に依存を離れたものは、他の存在をして依存せしめるものであろうか。しかしそう言うとき、それは他の存在を自己に依存せしめることに「依って」存在するということである。他を依存させる、というのは、その必要があるからではなかろうか?神が、単に被造物をして自己に依存せしめる存在であるとすれば、神と被造物とは結局共依存の関係と言わねばならないであろう。


そうではない、そんなはずはない。神が真に依存を離れたものと言うには、被造物が神そのものにならねばならぬ。しかしそう言うとき、神というのは被造物なのであるから、すでに唯一絶対なる存在ではないことになる。被造物が唯一絶対なる存在となることによって、唯一絶対なる存在は唯一絶対なる存在ではなくなるのである。この矛盾はいかに考えられようか?


否そもそも現実世界の事実がこういうものなのだ。現在は永遠なのである。神は被造物の行為的尖端においてあるものであり、行為的尖端的であることが、真に依存を離れることなのである。無限に行為的で創造的な被造物と被造物との関係それ自体が神である。しかも同時に神は唯一絶対なる存在でなければならない。


行為的尖端とは、現在そのものであり、過去未来が、今ここ、に詰まったものであり、主体の絶対的座標を照らし出すものである。


神と人と溶け合って、一つの姿になること、これが依存を離れることである。


当然、主よ主よと呼び求める、あるいは主に祈る、こういうことも、我々が依存を離れるために必要なことであろう。それは神に依存することではない。己に依存すること、すなわち依存を離れることである。行為することである。


行為的意味を持たないものであれば、祈りなどというのはまことに無意味なものに過ぎない。それはロゴス的世界が現実世界に勝ってしまうことである。しかしロゴス的世界というのは、現実世界そのものを自己の存在の基盤に置いているのだから、ロゴス的世界が現実世界に勝ることは、己自身を殺すことになる。


それでこういうただ祈りだけの祈り、形式的な祈りというものは、神から見れば、単にしつこいものであって、依存心の表れである。


「私はこれこれの事を望みます。主よ、私は主に忠実となりますので、どうか望むを叶えて下さい。」


すぐには叶えられない。そこで、同じような祈りを繰り返し、繰り返し行うことになる。が、これは元にある依存心を脱しない限り、同じ結果となる。しかし、神は絶対に正しい存在に違いなく、私の祈りも、その神に忠実に従うものだから、正しいに違いない。そう考えて、しつこく祈り続けることになる。この辺にキリスト教会の二千年の存続の秘密があるのかもしれない。しかし我々はイエスの精神に立ち返る必要がある。


「神は絶対に正しい存在に違いなく、私の祈りも、その神に忠実に従うものだから、正しいに違いない」、こういう考え方こそが、まさに私が形式的規定に過ぎないとして斥けたものである。それは断じて誠実などではない。


神としては、もっと「上」を見て欲しい、無論、神とてもその願いを叶えてやりたいのだ。ところが、祈りを続ける彼は、真に行為的であろうとはしない。願いは、己が行為的尖端的に掴み取るものであること、神の励ましは、彼自身の行為の内にさりげなく、しかし絶対的な強さを持って現れるものであるということ、これを悟らねばならない。


なるほど願いそのものは正当のものであろう。が、彼の祈りの在り方が間違っている。彼は、願いが叶えられる真の原因を知らない。だから、このしつこい祈りを受けて、本当にその通りにしてしまうと、彼は「私のこの祈りが通じたからだ、祈りが正しかったからだ」と心得違いを起こしてしまう。そうすると、彼は次もまた、同じように、しつこくしつこく、見当違いな態度で色々のことを祈るに違いない。そして彼にとっては、その祈りは、「絶対的善」なのであるから、益々救いようがなくなる。益々依存にはまり込む。


神はこういう事情を全て見通している。だから、絶対に彼の、根本的に間違った態度に由来する祈りは、その通り叶えてはならない。彼が真に行為的に生きるとき、それは予想もしない形で、さりげなく叶えられる。所詮水は高きより低きにしか流れない。逆流させてはならない。逆流がもし起こったならば、そこには何がしか邪な存在の関与があるに違いない。


我々は祈り地獄に落ちないように注意すべきである。我々が、行為的に生きるとき、こういう心配はない。行為的とは創造的ということであり、そのような生き方においては、神は、その都度その都度新しい姿で現れる、常に目の覚めるような発見がそこにはあるであろう。神は真の意味で被造物の友となる。




さて、ここで、なぜ私がこんな文を書くことになったのか、そのことについて話をして、締めくくりとさせていただこう。


実家の猫のことである。猫には時々エサを与えねばならない。ペットを飼うとは、単に可愛がるということだけではない、もっと色々あるのだ。エサ、それだけに思われるかもしれないが、こういう「身体的欲求」の関わることというのは結構厄介なのである。


当然エサの管理は、主人たる家の住人がするのであるから、猫は食ということに関して、完全に人に依存することになる。そして、「人からエサをもらえるか否か」ということが重要な問題となる。


猫がエサを得る道は、あたかも教会が神の独占権を主張し神への道を教会の教義にのみ限定するように、人からもらうという道のしかないので、猫なりにこの道をうまい具合に通ろうと、策を弄するのである。


といっても猫だから、エサを要求して、ニャーニャーと可愛く鳴き、身をすり寄せてくる、というぐらいである。人の方でも、そういう様子を見て、つい可愛いと思い、「要求に応えて」エサをやってしまう。


「要求に応える」というのが危険である。これは、猫による際限のない、エサ要求行為の始まりである。猫からすれば、「これをすれば思い通りエサをくれる」と心得る。だから、同じことを際限なくやれば、いい、と思ってしまうのだ。

(してみると、猫にも「ロゴス的世界」つまり、「口」の独立した領域の萌芽は見られるらしい。が、これは恐らくペットなど、人間生活に密接に関わる中で生まれる習性と言うべきものであろう。)


しかしエサは、人からすれば、単に客観的必要性から、猫の生体維持、健康維持の必要から与えたということに過ぎない、本質的には猫が可愛く鳴いたから、などという理由には基づかない。ここを猫の方では混同してしまう、区別が付かない。だから、しつこくしつこく、依存的行動が行われ、主人としてはとても後悔することになる。


こういうとき、どうするか。やはりエサは客観的必要から客観的に与えるもの、という態度を貫き、猫の要求に軽々しく応じないようにせねばならない。猫に話しかけて、教え諭そうとしても無駄である、言葉が通じない。対等に対話できないとなれば、行いによって、徐々に不自然な状態を改善して行くほかはない。元はと言えば、深く考えず軽々しく要求に応じてしまったことに問題があるのだ。よく考えるべきであった。


さて、翻って考えるに、神は我々に対して同じように思っているのではないか、ということだ。そもそも我々が神を「神」と一括りにしてしまうこと自体もそれを物語っている。我々からすれば、何だか偉い存在として、一つの「神」としか思えないものなのだが、実際のところは、個性を持った、沢山の霊たちである。沢山の霊たちが、人間を陰ながら支えているのであり、その時々の必要に応じて、適度に援助を与えてくれているのであり、骨を折ってくれているのである。無論人間の目には見えない、彼らは、なんとなく霊的に感じる高揚感によって存在を知ることができるというのみだ。つまり「神」と一括りにしてしまう以上に人間からは感じられない。


私も、この「神」に、日々色々の願い事や祈りをする。私自身大いに思い悩み、是非ともそうあって欲しい願望、私自身の自我の急所に関わる願望は、ついしつこく祈り続けてしまう。いくら神に感謝していても、このしつこさがあるという時点で、いくら立派な理屈でつくろってみたところで、この態度そのものが誤りなのだ。しかし私自身は正しい態度と思ってしまっているので、この祈り地獄の深みに嵌ってしまうというわけである。


祈られる方の神は、どういう風に思うか、ということが、実家の猫の様子を見て、分かったのだ。祈られる方からすれば、しつこく迷惑千万なものも、祈る方は正しいと信じ込んでしまっているのだから、なかなか始末に負えない。


「神様済まねえ、猫を見てよくわかった」


「わかりゃいいんだ、気を付けなさい。お主の願い事、知らないわけではない、が、態度が援助を受け付けないのだ。」


そんなわけで、ちょっとした償いの意もこめて、こんな文章を書いてみたというわけである。



お読みくださり、誠にありがたうゴゼエヤス。